正史:佐太郎翁以前

 しっかりと記録としても残り、かつその実像を垣間見ることのできる最も遠い先祖は森島勘右衛門(かんえもん)である。5代当主にあたり、史書にもその名が記されている、森島家中興の祖と言っても過言ではない。親族の古老は親しみをこめて「かんねもんさ」と、名古屋弁でこの人物の名を呼ぶ。
 勘右衛門は明治16(1883)年、66歳で死去している。逆算すると文化14(1817)年前後の生まれである。激動の時代を生きたと言うにふさわしい。
 現在でも本籍地になっている岐阜県安八(あんぱち)郡下大榑(しもおおぐれ)新田一帯は、森島家が農民筆頭格である庄屋2軒のうちの1軒であり、言い伝えによれば10町歩の土地を所有していたそうである。地主としては小規模だが、近辺の大地主である早川家所有の70町歩の代行管理も行っていたようであり、当時としてはまずまずの暮らしぶりだったようである。

 勘右衛門は俳句をたしなんでおり、近辺の富農としばしば句会を催していたことが資料に散見できる。

 眼をあかす いろは始めの 習ひごと 楚風
(輪之内町史 P.201)

 この楚風というのが勘右衛門の俳号である。

 明治維新の後も、農村にはさしたる変化もなく森島家は地主として存続する。明治5年の戸籍法制定により、勘右衛門は「下大榑新田戸長(輪之内町史 P.212)」に任命され、公的にその地位 を認められる(ただその後の町村合併によりこの制度は廃止される)。

 勘右衛門は、いわば地方文化人とでもいったおもむきの人物であったらしく、前述の俳句のみか、書画骨董も蒐集していたらしい。今、我が家に残る品々は、その多くが勘右衛門の代のものであると推察されている。

 勘右衛門の死後、嫡子為三郎が当主になる。明治32年に仁木村会議員となるが、その年に惜しむらくも逝去。その弟佐太郎が7代目当主となり、森島家の激動はここから始まる。

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