正史:佐太郎翁以後

 佐太郎翁のため、我が家の形態はその前後で大きな断絶がある。いわゆる江戸期の庄屋を引きずったかたちで、一般 の農村地主のあり方は戦後の農地改革まで保持されていくのであるが、森島家は家産ともいうべき先祖伝来の土地は翁の時代に消滅し、その後に残った財産は翁の帰郷後の活動により新たに培われたものがほとんどであった。旧来より少なくなった所有農地、つまりより小規模な地主と化した本業収入に加え、株の仲買いで培ったノウハウをもとに購入した株式の配当、それに従来より行っていた早川氏所有地の管理・小作料徴収代行からの収入である。
 この3つの主な収入源のうち、やはり直接の小作収入は減少したと推察される。そのため新たに加わった株式配当、そして以前よりウェイトが増した(また、仲買店倒産の負債の担保として、父祖伝来の土地も早川氏に移管されたため、絶対量も増加したと思われる)農地管理の代行業務が、佐太郎翁死去前から農地改革時までの森島家の家計を支えていた。佐太郎翁の長男、8代目当主弥太郎のこの時期の月給は70円であったが、上記2つからの収入は年間1500円であったと弥太郎の妻、ふみをは述懐している。
 現在風にいえば、ポートフォリオの近代化および分散化であろう。この当時所有していた株券で、現在も残存しているものの銘柄は満州重工業(二キ三スケと称された鮎川義介が社長を務めた国策会社)、帝国燃料興業、八王子瓦斯(東京ガスの前身か?)である。重工業・公益企業系にシフトしていたことが推察され、安定性を重視していたことも読みとることができる。

 さて、時代は前後するが佐太郎翁の長男であった弥太郎は、小学校入学に際し、東京から帰郷する。その後、東京高等農林学校に進学。現在の東農大の前身である。地方地主の進学先としては、非常に順当であったといえるだろう。
 弥太郎25歳の時に、佐太郎翁が死去。長男であった彼は、8代目当主として森島家を継ぎ、翌昭和18年に妻・ふみをと結婚。その1年後には長男・信夫、さらに1年後には次男・実夫が誕生。昭和20年4月3日、召集令状により出征を余儀なくされるが幸いその生物学の知識を活用するため、内地勤務となる。終戦後同年10月に除隊。無事郷里に帰還し、ここから現在の森島家の礎が築かれることになる。

 敗戦後の昭和20年は、肥料・労働力の不足を原因に全国的な不足となり、都市部には餓死者も出るありさまとなった。さすがに農村部である下大榑新田では、そのような惨状は避けられたが、地主及びその代行業務を行っていた森島家では、検見(収穫高を測定し、それをもとにその年の小作料を決定する作業)に忙殺されることになる。
 また、これより数年後、有名なGHQ主導の農地改革(解放)が実施される。一応地主階級に属していた森島家でも、佐太郎翁が保有した小作地をほぼ手放すことになった。それに加え、国策会社中心の保有株券は敗戦により全て紙屑と化し、従来の収入源を失うことになった。
 弥太郎の職業は学校の教師であり、以後それが中心の収入になるのではあるが、手をこまねいていれば森島家は完全に没落してしまう。そこで、森島家がその農地管理を代行していた早川家からいくらかの農地と住宅用の土地を購入(農地改革後、自治体から購入したという説もある)。この代金が9350円、当時としてはかなりの大金であった。このうちの350円を頭金のようなかたちで支払い、残りの9000円は割賦で支払われたことが、今に残る売買契約書に記録されている。その記録が正確に実施されたとすれば、支払期間は昭和46年まで続いたことになっている。この「9000円の土地」が、現在の森島家に残る不動産の中心である。つまり、現在の家産の大部分は弥太郎・ふみを夫婦によって形成されたのである。このことは特筆しておかねばならない。
 その宅地は現在も森島本家として、弥太郎・ふみを夫婦が起居している。この土地はもともと早川氏の所有であったが、そこはあの佐太郎翁の銅像が建てられた、森島家との縁が深い土地である。ここが現在我が家の所有になっているのも、因縁というべきだろう。銅像は今も残存し、その姿を子孫に仰ぎみせている。

 それと前後して、森島家は2つに分かれることになる。一つは弥太郎およびその妻ふみをであり、新規に成立したのはふみをの弟・益男と弥太郎の妹・久美子の夫婦を軸とする家である。旧来よりの森島家の家屋は益男が継ぎ、長男であった弥太郎は前述したように、新たに購入した住居に移る。この経緯は今となっては定かではないが、その複雑さのゆえにどちらが本家であるのかは、今もって判然としない。ここでは直接の血統であり、また筆者の祖父でもある弥太郎の家を本家であるとしておく。

 勘右衛門以来、我が家のは書画骨董、あるいは史書としての価値があったであろう作米帳(小作農耕者の管理及び収穫高・年貢高の記録帳簿)など、様々な伝来の品々があった。しかし、戦後の混乱・貧窮に際し、その多くは散逸してしまった。そのため、今となっては森島家の実像を完全に再現することはできない。補筆であるが、この「森島家之由来」も、その多くを推察に頼らざるを得ない。

 さて、長男信夫、次男実夫はそれぞれ大学に進学。当時の大学進学率および進学に要する費用を考えてみれば、これも特筆すべきであろう。当然、弥太郎の収入だけではその家計をまかなうことは困難であり、妻ふみをは養鶏に着手。弥太郎の収入全てを子息の学費に費やし、夫婦の生活はこの養鶏によって営まれた。最盛期には500羽の鶏を飼育していたという。女で独力で行ったことを考えれば、かなりの規模であったといえよう。

 その後、長男信夫は妻悦子と結婚。長男昌洋、つまり私と次男丈洋をもうける。次男実夫は愛知県に分家。現在の森島家家族構成は弥太郎・ふみを夫婦、信夫・悦子夫婦、そして昌洋、丈洋の計6人である。

 歴史として記述できるのは、ここまでである。以後の家系も永続することを願い、筆を置くことにする。

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