秘史:佐太郎翁の時代

秘史:佐太郎翁の時代 やはり、「佐太郎翁」抜きにして、我が家の歴史は語れない。我が家歴代当主の中で、その業績は最も大きく、また最もやり手でもあった。・・・ということは、「秘史」に書くべきような裏の部分も最も大きいということである。以下、古老の回想をもとに、推察をまじえて翁の生涯を検証してみたい。

 彼は先々代勘右衛門の子にあたり、先代為三郎の弟でもある。為三郎の早逝により、家を継ぐことになる。というのは「正史」の通 りである。第七代当主。縁起の良い数字である、が、彼の人生は八方広がり、というに相応しい波瀾万丈のものであった。

 先祖代々の家産全てを担保にして資金を調達し、株の仲買屋を開く。保守的な農家であるにもかかわらず、よく親戚 の反対を押し切ったものである。「思い立ったら即行動、人の意見など構うものか」というのは、いまや森島家の伝統ともいえるくらい、歴代当主及びその跡継ぎ候補の座右の銘であるが、そのはじまりはこの佐太郎翁であったのではなかろうか。フロイト流に解釈すれば、この後の森島家当主の上位 自我は、この佐太郎翁なのである。

 明治末期に開業したと思われる彼の店、「山佐」は、大正初期にあえなく倒産。長く見ても20年ほどの期間である。日本の産業革命期の高度成長に、ちょうど歩を一にしている。つまり、バブル景気の徒花を打ち上げただけに終わってしまった。その華麗な花火のおかげで、我が家は伝来の家産全てを失ってしまう。時に佐太郎翁は45歳前後であったと推察される。当時の感覚でいえば、人生も終盤にさしかかったところで「人生ゲームの上がり失敗」マスに駒をとめてしまったことになる。

 しかし、これからが佐太郎翁の真骨頂であった。もともと縁が深い早川家のもとで、耕地整理・灌漑事業を始め、水害に有史以来悩まされてきた、あの「輪中」で知られる安八郡を見事に美田に変える。灌漑には私財数十万円を費やし、耕地整理事業は実に221.1町歩の田地に関わり、10年の歳月をかけるものであった。その功により、翁は仁木村の村長に就任する。彼の前半生に失った森島家の家産も、徐々に復していった。
 以上が正史よりの要約である。

 さて、上の段落を読んで疑問に思われたことはなかったであろうか。そう、「株でスッテンテンになったにも関わらず、なぜ私財数十万円を事業に投入することができたのであろうか?」という謎である。
 ここからは推察であるが、当時の農村における経済的活動は、地主階級の利益を最大化することがその主たる目的であった。つまり、「農地の生産性が上がる」=「地主の利益が増大」という図式が成り立つのである。家産を失ったとはいえ、下大榑新田随一の名家であり、安八郡内でも有数の実力者であった森島家のブランドを活かし、彼は地主階級をスポンサーにして、灌漑事業を行ったのではないのだろうか。この手の公共事業は個人でやるにはリスキーで、誰もがおじけづいていた。そこで佐太郎翁が、「私が皆さんの代わりに事業を行いましょう。その代わり、出資をよろしくお願いします」とでもいうような提案をしたのであろう。地主階級をまとめ、事業をスタートさせたのであろう、翁の行動力、企画力、説得力は大したものである。
 地主階級の私財を資本に、佐太郎翁はその名声を復すべく勝負に出た、ともいえる。成功すれば有力者に貸しをつくり、再スタートの糸口となるべき名声も手にはいる。失敗すれば、パナマ運河掘削で破産したレセップス状態である。株といい、この事業といい、佐太郎翁は根っからのギャンブラー気質である。今回はその勝負に見事勝った。結果 、歴史として残る史書には、「私財を散じて」とまで記述されることになる。無名のスポンサーたちは、歴史の陰に隠れているのであろう。一将功成りて万骨枯る、を地でいくような話である。

 さて、謎はまだある。「株屋の負債返済のため、全てが失われたはずの財産が、どうして旧に復していったのか」である。ここに、耕地整理事業がからんでくる。これは私の推察ではなく、第八代当主弥太郎の推察である。そのため、信憑性も高い。・・・残念ながら。

 耕地整理事業、について簡単に説明しよう。正史に記述したとおり、「不定形で機械が入りにくく、生産性の低い土地を区画整理し、近代的な農地に生まれ変わらせる作業」のことである。つまり、「ぐちゃぐちゃの土地をきれいな碁盤目上の農地に変える」のである。
 土地に対する帰属性が高い日本では、現在でもこのたぐいの作業は手間暇がかかる。自分の土地を変更されることを嫌がる人間が多いからである。特に当時は地主・小作両方の権利関係が錯綜していたと推察され、その複雑さは大変なものであっただろう。
 しかしながら、定型地に変更したほうが、全体の利益は大きくなるのである。ただ、そのために個人の利益が失われる場合があるため、調整に膨大な労力が必要となる。佐太郎翁は、この調整作業を主に行ったのであろう。
 そして、ついにこの事業に成功する。現在のこの地の基盤は、翁が築いたと言っても過言ではない。
 佐太郎翁は不朽の名声を勝ち得た。

 ・・・さて、「不定形地を定型に整理すれ」ば、「剰余地」が出現する。当たり前のことである。
 ああ、書きたくないなぁ。でも、おそらく史実なので、書かねばなるまい。佐太郎翁は、その切れっ端のように余った川沿いの土地を、自分名義のものにしてしまったのである。そして、それが昭和前期の我が家の家産となる。辣腕デベロッパーのはしりのような人だ。これが、我が家の家産が復活した、大きな主要因と思われる。
 ちなみに翁の名誉のために書き添えておけば、この件にはおそらく地主サイドとの間で密約があったのではと思われる。「大変な手間ひまがかかる事業だから、あなたが全てを取り仕切ってくれ。その代わり、その見返りとして剰余地はあなたのものにしてもよい」というような内容の。
 佐太郎翁は、この耕地整理事業中に、明治以来遠のいていた仁木村議の座に返り咲く。これも地主階級の全面的なバックアップによっていたのであろうし、かつ翁の事業の肯定をも意味していたのだろう。それを証拠づけるものとして、このときに取得した土地は他の地主との共同名義である。つまり、もともとの持ち主に利益を供与するかわりに、その分け前にあずかったということである。また、この頃に翁は株式も購入。・・・どうも株の未練は絶ち難かったようだ。
 ちなみに、耕地整理事業を実際に担当したのは、現・日八工業株式会社の初代である。彼はその事業により、村一番の土建業者としての座を不動のものにする。村議(のち村長)・森島佐太郎-地主階級-土建屋の三角形は、まさしく現在の政-財-官トライアングルそのものである。そして時は流れ平成10年、日八工業は町の事業発注にからみ、汚職で業務停止処分になる(これは森島家とは関係ない)。その萌芽は、すでにこの時に作られていたのである。

 そして村長に就任。これも在地の小地主に推されてのものであろう。佐太郎翁の村長在任期間は1年8ヶ月(S.15/2/20 – S.16/10/26)。仁木村史上最短である。(輪之内町史 P.218より)
 在任中は、「何もしない村長」として、大変有名だったそうである。波瀾万丈のすえ、何とか功成り名遂げた翁は、気力を失ってしまったのか、あるいは守りに入ったのか。村長辞任の3ヶ月後、森島佐太郎死去。正史記述の通 り、葬儀は村葬として営まれた。

 今でもその功績・・・であろう、やはり・・・を讃える、銅像が我が家に残っている。くどいようだが、これもおそらく佐太郎翁のおかげで利益を得た地主階級の資金で建立されたのであろう。しかも、この銅像は翁の生前に建てられている。序幕記念式の写真には、翁の姿もはっきりと写っている。・・・恥ずかしいことである。そしてこの目立ちたがり根性も、我が家の血統の中に刻み込まれてしまうのであった。

 「英雄色を好む」というか、翁は名古屋で株屋を営んでいた時代に二号さんをこしらえ、囲っていたそうである。さらに驚くことには、破産で帰郷したにもかかわらず、翁はお妾さんを実家に連れて帰ってきた。もちろん家におくわけにはいかないので、隣町に住まわせたらしい。晩年はこの妾宅に入りびたりだったようである。正史中に、「妻りきは上京して羊羹屋を開いた」というかなり突拍子もない記述があるが、その一因にこのことがあるのではなかろうか。・・・が、誰もそんなことは語ってくれなかったので、真相は闇の中である。そしてこのお妾さんを主役に、翁の死後一波乱が起こったようであるが、・・・このことも、はっきりとは誰も語ってくれなかった。

 森島佐太郎、69年の波乱に富んだ生涯であった。何だか汚い裏話ばかりになったが、翁が現在の岐阜県安八郡輪之内町の礎を築いた人間の一人であることは間違いない。その業績は、いかなることがあろうとも忘却されるべきではない。

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