秘史:森島家・想像の彼方

秘史:森島家・想像の彼方 「正史」に書かれているとおり、「森島」姓の由来に関しては、伝承のような話があるだけで、しっかりしたところは何もわかっていない。
 だいいち、「江戸時代の農民には姓氏なんてなかったのではないか?」という疑問を呈される方もおられるだろう。実は、森島家のある岐阜県輪之内町が刊行した「輪之内町史」には、我が家のご先祖様がたびたび現れるのだが、姓がない。
 しかしながら「森島姓の伝来」については、同書がページを割いて記述しており、また「森島○○」というかたちでの記述も時にあらわれる。やはり、森島姓は江戸時代から、あるいはそれ以前からのものと考えるのが妥当だろう。江戸時代には、原則として農民は名字を名乗ることが許されなかったわけであるが、例外がないわけではない。武士が土着した場合、あるいは武士階級と特殊なつながりがある場合などである。「森島姓は飛鳥時代よりの由緒ある姓」という伝承が真実だとすれば、名字の使用もある程度許容されたのであろう。

 我が家には、伝来の短刀が一振りある。本当は長刀もあったらしいのだが、残念ながら散逸してしまったようである。ただの短刀ではない。徳川の葵紋が入った刀である。
 なぜ、森島家にそのようなものが残されているのだろうか。この疑問を解明することは、我が家の過去をひもとく一端となりそうである。

 葵紋というと徳川家が真っ先に思い浮かぶが、この紋所を使用したのは徳川将軍家や御三家だけではない。松平姓を名乗る親藩の多くも、この紋所を用いていた。
 森島家のある岐阜県安八郡下大榑新田から最も近いところに位置していた徳川の親藩といえば尾張徳川家、ないしは岐阜県南部にある高須(たかす)松平藩である。尾張徳川家は、森島家ふぜいが刀を貰えるような大名家ではないので、この短刀はおそらく高須藩から下賜されたものだろう。
 一介の庄屋が殿様から刀を貰えた理由は何か。当時の時代背景から考察してみよう。
 江戸時代も中期を過ぎると、貨幣経済が全国に浸透し、多くの武士階級はその結末として貧窮になっていった。武士は農地から収穫される米穀にその主収入を依存しているため、時代の潮流に乗り遅れたからである。また、参勤交代や御用普請をはじめ、幕府に命ぜられる責務に多額の費用を必要としたからでもある。高須藩とて例外ではなかったのだろう。ましてや数万石の小大名である。参勤交代の費用を捻出するだけでも相当な負担だったに違いない。
 かたや、森島家が庄屋として管理していた下大榑新田は天領(註:幕府の直轄地)であり、多くの史書にみられるように、天領の農民は一般 の農民より裕福であったと推察される。
 ここまで書けばおわかりだろう。おそらく、森島家の先祖はおそれおおくも殿様に何らかの経済的便宜を図り、その見返りとして刀を頂戴したのではないか。何だか生臭い話ではあるが、そう考えると合点もいく。

 さて、伝承によると森島家は笠松から下大榑新田に移住し、そこで庄屋になったということである。「正史」にも書いたとおり、おそらく江戸時代の中頃であろう。地名に「新田」とつくことから、新田開墾時に分家・移住したと思われる。分家する前の本流は笠松(岐阜市近郊)に存在したと言われているのが、この笠松も天領であり、幕府代官のもとで行われたのであろうと推察される。分家してどうしていきなり庄屋なのか。おそらく、森島本家はこの地の開墾にあたり、何らかの寄与をしたのに違いない。その功あって、分家は当地の差配を任されたに違いない。

 推察し、そして書き出してみると、何だか生臭い話の連続である。森島家の先祖は、相当なやり手が何人もいたのだろう。
 ちなみに、下賜された短刀には「志津」の銘が入っている。本物なら鎌倉時代の名工志津三郎(=兼氏)の逸品であるが、どうも偽物のようだ。残念ながらこのあたりは所詮百姓の愚かさ、殿様にうまくだまされたのだろう。

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