たばこについて

たばこについて さて、久しぶりの「提言」はすこし卑近に、「たばこ」についてである。と書き出せば、おおかたの読者諸兄は「たばこの煙害についてだな」と勘をはたらかされるのではないだろうか。
 少し、違うのである。ヒステリックな禁煙論ではない、たばこに対する考察である。
 さらに付け加えていえば、「たばこ」を例にとって、論理的なものの考え方、というものをお勉強することも目的である。

 最初に、医学的な見地から。
 一般にたばこは体に悪いといわれている。特に、咽頭ガン、食道ガン、肺ガンの原因になっているといわれる。さて、まずはこの通説をくつがえすことからはじめよう。
 戦後増加したといわれて久しい肺ガンであるが、データを見るかぎり、その通りである。問題は、その主要因となっているものは何か、である。
 一般には、たばこと大気汚染である、とされている。多くの保健衛生の本にも、この二つは並列記述されている。が、それは正しいのだろうか。ここで科学的な観察手法を導入し、考察してみることにする。

 肺ガンになる確率=x×たばこの影響+y×大気汚染の影響(x、yは定数)

 と、おおざっぱな関数を仮定することにしよう。純粋な両者の肺ガンへの影響を確認しようとすれば、たばこ、大気汚染の片方を一定にして、残りのもう一方を増減させてやればよい。
 残念ながら正確な統計を出すほどの有意値を示す資料を発見することができなかったので、ここからは推論である。科学ではなくなってしまうのだが、まあいいのである。
 戦前にもヘビースモーカーと呼ばれる人間は数多くいた。記録に残っているのは文人、あるいは経営者などであるが、彼らの死因を調べてみると、意外に肺ガンというのは少ない。
 逆に、ノン・スモーカーで肺ガンに倒れるのは明らかに戦後から増大している。この前後で変化した変数は、当然大気汚染である。
 この2例から・・・例とも言えないのだが・・・・、戦後の肺ガンの増大は大気汚染が主要因であるといえよう。そんなことを言わなくても、マクロ的に見た場合、大気汚染と喫煙のどちらが空気を汚しているかということは、素人考えでも用意に推察がつく。
 同様に、食道ガンは食生活の変化という影響も見逃せない。咽頭ガンに関してだけは、たばこが主影響である。現段階、他に原因とされている要因がたばこに比べ比較的少ないからである。

 では、逆にたばこの好影響について考えてみよう。小説家の筒井康隆氏は、「たばこを吸わない人間は健康に気をつかうかわりに物事を深く考えず、意味もなくにこにこしている。話が面白くない。怒るとしつこい。どスケベ。文章が散漫である」という旨の文章を書いている。まあこれは氏一流のレトリックではあるのだが、逆説的にいえばたばこは高次の精神活動を助長するものである、ともいえる。作家に喫煙者が多いのはその裏づけであろう。もちろん、世の中にはノン・スモーカ-である知的生産者も多いので、これは必要条件とはならない。ただ、「たばこを吸うこと」が自らの知的創造に欠かせない、という人間もまた多いわけで、その人たちにとってはたばこを吸うことが必要十分条件になってくる。

 たばこには肉体的なデメリットがある・・・巷間叫ばれているよりは少ないといえ・・・が、逆に精神的なメリットも存在する。我々が「ホモ・エコノミクス」であるならば、デメリットよりメリットのほうが大きい場合、これを享受すればよく、その逆ならば喫煙すればよい、ということになる。肉体的デメリットだけを強調するのは、その裏側に存在するメリットを無視していること、およびそのデメリットを過大に宣伝していることの2点から、正確な議論を妨げている可能性がある。

 ちなみに、ここでの「ホモ・エコノミクス」でない好例は、格好つけでたばこを吸うヤンキーと、無思考状態で禁煙を声高に叫ぶおばさんたちである。

 閑話休題。さて、次は経済学的な観点から。
 日本の場合、たばこには税金がかけられている。なぜ税金がかけられているのか、について、あくまでも経済学的な発想から追ってみることにする。

 1・たばこを吸うことにより生じる疾病の、治療の対価として。
 2・副流煙を生じることに対する迷惑料として。

 まず1から。たばこを吸うことにより、肉体的にダメージを蒙ることがある。もっとも先に述べたように、その病気の全てがたばこのせいではなく、その何パーセント分かである。
 日本では社会保険が完備されているため、疾病治療費用のいくらかは実質上公費負担になっている。たばこをその原因(の一部)として、病気になって治療を受けたとしよう。喫煙行為自体は個人の嗜好であるため、社会通念上はともかく因果関係としては「個人の行為で社会に迷惑をかけた」ということになる。ここで重要なのがたばこ税なのである。一箱につき数十円の税金は、その公費負担を前納する、一種の保険システムであるという見方もできる。

 次に2である。たばこが純粋に個人的な範囲の嗜好であれば、それほど問題にはならない。ところが、たばこには「副流煙」というものが存在する。たばこを吸っている人の隣にいれば、好む好まざるに関わらず、その人は煙を吸う羽目になる。横で副流煙を吸っている人、いわゆる受動喫煙者は、何のメリットもないのに、その弊害だけを引き受けることになってしまう。経済学の用語を使えば、これは一種の外部不経済である。
 さて、ここでもたばこ税が、その外部不経済の是正に一役買うことになる。外部不経済により他者に損失を与えた分(具体的には精神的な苦痛と副流煙によってもたらされた疾病治療額)、喫煙者はそれを受動喫煙者、一般的には全てのノン・スモーカー、に対して補填しなければならない。それがたばこ税なのである。マクロ的に見れば、たばこ税の総額分、喫煙者は余分に税金を納めていることになる。この税金こそが、副流煙の損害に対して払われた代価である、といえる。

 問題は、この1、2を合計した金額とたばこ税の大小関係である。これが等しければ問題なく、1、2の合計金額のほうが大きければたばこ税は値上げするべきで、たばこ税のほうが大きければそれを下げるべきである。もちろん税金の多寡でたばこへの需要も変化すると思われるので、その点も考慮に入れねばならない。

 さて次は、一番重要な倫理学(俗説的な倫理ではない)的な観点からの考察である。
 ここでは「車の排気ガス」と「たばこの副流煙」を、「不特定の他者に与える煙害」として同列に仮定する。またその影響力は、当然車の排気ガスのほうが大きいものとする。
 以上の仮定(というよりはむしろ一般的な常識)に基づけば、「より人に迷惑をかける」車の排気ガスを出す人、つまり車社会におけるメリットを享受している人間は、喫煙者に対してその喫煙をやめるように注意することはできない。なぜならば、自らの行為すなわち車の運転=排気ガスの放出、を肯定しているにも関わらず、それより害の小さい行為すなわち喫煙を咎めるのは理屈に合わないからである。個人の感情、損得論(つまり、俺が車に乗るのは俺が便利だからいいが、たばこは俺がイヤなんだという理屈)であれば話は別だが、一般的な権利を主張する場合においてはそうである。

 ただ少し話を経済学に逆戻りさせてみよう。車のデメリットは排ガスであるが、その代わりに様々な効用(経済的である、肉体的苦痛を少なくする、時間の節約など)がある。同じように、たばこも前述のとおりメリットデメリットの双方を持っている。マトリクス的に分類すれば、

 1、たばこがメリットになり、車がメリットになる人間
 2、たばこがメリットになり、車がデメリットになる人間
 3、たばこがデメリットになり、車がメリットになる人間
 4、たばこがデメリットになり、車がデメリットになる人間

 となり、これらから、

 たばこをやめて欲しい人間=3+4

 車をやめて欲しい人間  =2+4

 という式が導出される。ゆえに、民主主義的解決法を取ろうとするならば2と3の多寡で倫理的判断を下すべきであり、それによって経済学でいう「パレート最適」が実現するのである。
 例を取れば、2のほうが3より多かったとしよう。その場合車を禁止してたばこを容認したほうがマクロでの満足は大きくなる、ということである。もっとも個々人によってその満足度、不満度は異なるので、現実には上記の式は当てはまらないであろう。

 一方、「人混みではたばこを吸わない」など、社会通念としてのマナーがある。これは自然な感情の発露ともとれるのだが、経済学的に見れば「効用を損なわない程度に、その外部不経済を抑制する」という考え方でもある。喫煙者が著しくその効用を損なわない限り、「ポイ捨てをやめる」「人混みでは禁煙」などのマナーを守るのは、ここでの「パレート最適」を実現する比較的容易な手段であるといえよう。問題は「マナー強制の行き過ぎ」であり、必要以上に禁煙を強制すれば喫煙者の満足度は低下し、結果的にパレート最適を実現しなくなる(かもしれない)おそれがある。その点には留意する必要があろう。

 さて、最後に文化人類学からの洞察である。
 一般に発展途上国では、「たばこは下層階級の吸うもの」という意識が強く、特にアジアではそれが顕著である。私が個人的に親しい東南アジアの友人たちはみな大学生(彼の地のエリート階級に属する)なのだが、おしなべて彼らはたばこを吸わない。また、上流階級が出入りする場所(一流レストランなど)は他の場所よりも禁煙率が高い。
 「先進国のほうが発展途上国よりも優れている、というのは正しいのかどうか」という議論はここでは避けるが、エスタブリッシュメントがたばこを吸うというのは、先進国や古い文化を持つ地域のほうが多いといえるだろう。
 「そうはいっても、あのアメリカでは禁煙がブーム」というご指摘もあろうが、精神病理学的にアメリカを分析すれば、「アメリカの正義」-ここでは禁煙をさす-、の形成過程は概して強迫神経症的であることが多い、という指摘は多くの識者がなすところである。
 つまり「こっちのほうがいいかもしれないんじゃないかな?」というあいまいな思考を許さず、「こっちの方がいいに違いない、絶対そうに違いない、だったら何が何でもそれをしなければならない」という極論に行き着いてしまう風潮がある、ということである。
 このような事柄も、喫煙の是非を考える上では頭に入れておきたい。

 以上の文章を読んだ上での「喫煙は是か非か」という判断は、おそらく人によって異なるであろう。そう。異なるのである。喫煙という行為のメリット・デメリットは個人によって異なるためである。

 この問題に限らず、賛否両論のある問題に関してその是非を考える上で必要なのは、公正な態度による考察である。万人にとってデメリットである行為ならば、それはすでにこの世から消え去っているはずであり、逆にいえば議論百出の事柄というのは、(自分にはマイナスでも)他の誰かにとってはプラスになるものであり、仮にそれがなくなれば誰かの効用が減少するはずである。

 「禁煙を徹底すべきだ」と言うのであれば、せめて「喫煙によってマクロ的な全体効用は減少する」ということを証明するべく努力すべきだし、「喫煙は個人の勝手」と言うのであれば、自らの行為が他人の効用を減少させていないかを考えるべきだろう。

 ようするに、「お互い思いやりを持とうね」ということである。それが欠如したまま、侃々諤々するのはナンセンスですらある。

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