ヒジュラ

ヒジュラ「役割」とは、結構明確なのだと思う。「ゲーム」の中の、配役分担。問題はその割り振られた役柄をちゃんとこなしているか、はたまた根源的にはその配役が適切なものなのかどうか、ということだろう。たまに、狭い狭いスポットライトの中で、舞台の袖幕も見えずに科白を喋っている気分になる。第二幕の台本は与えられているのだけれども、ト書きに書いてあるはずの、舞台設定はそのスポットライトの外側で沈黙を保っている、そんな感じだ。

 因果なもので、今まで、そしてこれから生きていく世界はそんな役割をちゃんとこなしていける人が、「うまくやっていける」舞台なのだろうと思う。そうである限り、たぶんこれからも僕は「台本通りに感情を込めて」、台詞を覚え、そして見るや見ざるやの観客にむかって独白を続けていくような気がする。いい悪いではない。物事には「良い悪い」などという真実は存在しない。
 そうである、だけだ。

 役割を外れた人間は、配役すらしてもらえない人間は、・・・・・・・いつも舞台の隅からスポットライトをのぞき続ける。スポットライトのまぶしい明かりだけを見つめるのも、スポットライトの外が見えないのも、どちらにせよ「舞台」の存在がゆえに規定されてしまっている。

 ヒジュラ。
 一般には「半陰陽者」「両性具有者」とでもいうのだろうか。外性器の形状異常で、男とも女とも認識されない人たちのことだ。彼らはある種のアウトサイダーである。先ほどの表現を借りれば「役割を与えられることのない人たち」だ。
 しかし、ある世界では彼らは男女どちらにも属さないがゆえに、汚れなき聖なる存在として扱われる場合もあるという。婚礼などには男女を取り持つ第三の存在として、欠かせない位置付けを与えられる。
 そう、彼らは役割を持たないがゆえの役割があり、そして自由である。自由とはおそらく孤独の裏返しなのだろうけれども、それでも彼らは自由である。

 ヒジュラ。
 たまに、渇望することがある。
 舞台に立ちながら、しかし自由なる存在。薄っぺらな自己規定など、そこでは意味もないし、用をなさない。
 モノローグも尽きる頃には、僕もアドリブの台詞で舞台を震わすことができるのだろうか。

 「巨大なミソスープの中に、今ぼくは混じっている、だから、満足だ」

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