国家というシステムと国という風土

国家というシステムと国という風土 最近おかしいなと思うのは「国を守らねば、ナショナリズムというアイデンティティーが失われる」という議論である。敬愛する新聞記者志望(2000年からは本物の記者)の友人が、「やはり国というアイデンティティーがないとダメだよ」と言い出したのが、僕の違和感に輪をかけた。左翼ではない僕が違和感を感じているのだから、そりゃ共産党や社民党の人たちが金切り声をあげるのもむべなるかな、ってところだ。

 海外を始めて訪れたのは高校生の時。独りで長旅をするようになったのは大学一年生の時。当時は単純に「ああ、将来金持ちになったら海外に移住したい」と単純に夢見ていた。ところが、渡航を何度も繰り返すうちにその熱意はだんだんと薄れてきた。なぜなんだろう。
 一言でいえば「日本を切り離せない」につきると思う。単純なことで、「飯(味噌汁とか漬け物とか)がうまい」「街を歩いていて一番違和感がない」「安らぎがあり、無意識にそれを享受できる」といったところだろうか。当たり前のことなのだけれども、「やっぱり俺は日本人なんだなぁ」と実感する。何だかんだ言ってもこの国に住むことが好きなのだ。まさしくこれは「ナショナル・アイデンティティー」なのであって、僕にとって異国は、どこまでいっても非日常の世界である。

 「だから、それがゆえに、ならばこそ、日本を愛しよう」
  ↓
 「ところで、愛する日本が危機に陥ったらどうする?」
  ↓
 「好きなんだろう?だったらいざというときには日本を守る覚悟が必要だ」

 さて、最近ちまたを跋扈する愛国者たちの三段論法は上記のようなものだと推察される。言っていることはその通 りで、「素直に受け取れ」ば、大変まっとうなロジックである。ところが、彼らの多くは論中の「日本」という言葉に大きなギミックを使用しているように見えてしょうがない。
 というのは、彼らが「愛し、そして守るべき」と謳う「日本」は、「日本国家」というシステムである点だ。やれ軍備が必要だ(そりゃ、最低限の軍備は必要だけど)、やれ誇りと忠誠心を持て、やれ太平洋戦争は正義の御旗のもとにあったと声高に叫ぶ彼らの念頭にあるのは、観念としての「人造物:日本国家」であり、僕の心のよりどころである「故郷=風土:日本」ではない。日本を愛する日本人の、魂の奥底にあるのはまさしく和辻哲郎が説くような実としての風土であり、その風土を保つための観念論的国家システムではない。「国家」はあくまでも秩序維持のための便宜的装置であり、本質的には(あくまでも『本質的には』)営みのための絶対十分条件ではないのである。

 僕はアナーキストではないし、現状の社会システムにおいては国家の存在は不可欠だと思う。しかし、国家のために武器を取って危機に対峙したくはない。そうではなくて、生存や財産が脅かされるようなとき、あるいは愛する風土としての日本が存亡の危機に立たされたとき(「日本語廃止」とか「味噌汁をやめてポタージュを飲もう」とか、極端に言えば)に、はじめて武器を手にするような気がする。国家が重要なのは、そのような重大時において「危険を排除し、風土を守るための装置」だからである。結果的には国家のために銃を持つことになるのだろうけれど、心のあり方は全然違うのだ。

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