太陽に融けた日々:その2

太陽に融けた日々:その2 いつものように、僕は宿を出た。ほどなく広場が見えてくる。
「ハロー?」
 人懐っこいきょろりとした目玉の若者が手を振っていた。彼の横には日本人の女性が膝を合わせて座り、にこにこ笑っていた。
「ハロー」
 僕はまず彼に挨拶し、それから「こんにちは」と、横に座る彼女にも、久しぶりの日本語に違和感を感じながら声をかけた。
「こんにちは。いつ来たんですか?」
 そういう時間感覚をなくしかけていた僕は返事のために、一度視線を宙に向けてカレンダーをめくる必要に迫られた。
「そうなんですか、わたしはもうちょっと長いんだけど」
「Nice to meet you」
 横から男が手を差し出した。
「What is your name?」
 僕は名乗った。彼もそれに応える。パパンといった。
「カオリといいます、よろしく」
 彼女も僕たちに続いた。
「暑いですよね、わたし、ネパールから下りてきたから」
「ネパール、涼しそうですね」
「でも、昼間は暑いのに、夜涼しくなるから風邪ひいちゃって」
「What city do you live?」
「もう大丈夫なんですか?」「I’m from Kobe. You know Kobe city?」
「風邪はもう治ったんだけど」
「Yes, I know!」
「Oh, you know Kobe」
「こっちに移動するのがしんどかったよう」
「Many Japanese come here, Some is from Kobe, Osaka」
「Really?」
「神戸から来たんですか」
「カオリさんはどこから?」
「Yes!」
「東京の方なんだけど、千葉」
「へえ」
「How long are you stay in India?」
「I don’t dicide」
「わたしも、これからどうしようかな。何か居心地いいでしょ?ここ。」
「ああ、わかるような」
「いつ出ようかな」
「まだ全然決めてないの?」
「うん、パパンとも仲良くなっちゃったし、小さい村だから友達ばっかになるし、余計出発しづらくって」
「What are you speaking?」
 パパンが久しぶりに割って入った。僕とカオリさんは、一度目を見合わせる。
「We speak ・・・ええっと、 We are happy, because we are friend」
 つたない英語で、カオリさんが分かるような分からないようなまとめ方をした。それでもパパンはにっこりして、
「Yes, we are friends!」
 もう一度僕の手を握った。そのまま彼は立ち上がり、僕は店を経営しているんだ、よかったら見においでよ、と歩き出した。すぐそばにある、小さな土産物屋だった。
 埃を払って椅子を差し出すと、パパンは小走りに店の外へ駆けていった。
「知り合い?」
「さっきみたいに座ってたら、向こうから声をかけてきたの。日本人の友達が欲しいらしくて。あ、お店やってるからとかじゃなくて。わたしも何も買わずに、」
 パパンがもう戻ってきた。両手に三つの小さなグラスを抱えている。
「こうやって、チャイだけご馳走になってるの」
 パパンがチャイを差し出した。ありがたく受け取ってちびちびとすする。やたらに甘い。
「よかったら、僕の店を見てよ」
 パパンが勧める。外から一瞥しただけでも、たいしたこともないのが判別 できたけれど、むげに断るのも悪い気がした。僕は席を立ち、狭い店内のすすけたショウケースをくるくるとのぞいた。木彫りの像。シルク地の安っぽい神々の絵。銀細工のアクセサリー。わりに整然と陳列されていた。
「どうだい。結構揃ってるだろう」
 パパンはまだ笑顔を浮かべたままだ。
「例えばね・・・」
 差し出されたのは、銀のネックレスだった。すすけて何の光沢もなく、鈍色というに相応しかった。手にして眺めるでもなく、黙ったままの僕を見て、パパンは笑いを引っ込め、やおら自分のシャツでペンダント・ヘッドを磨き始めた。激しく擦り付けるように。
「大丈夫かい?」
「シルバーだからね、ノープロブレム」
 荒い息を弾ませて答え、パパンは輝きを取り戻した小さなガネーシャ像を誇示した。そしてパパンはまた笑った。
 小さな小さな像の木彫りの置物を手にしたり、デッサンが狂った出来損ないのタペストリーをじっくり眺めてみたり、僕はしばしの時を費やした。結局、というかやはり買うものはなく、僕は店を出た。
「これから、どうするの?」
 カオリさんが訊ねた。
「宿帰って、寝て、夕飯」
 我ながら情けない答えだ。その情けなさを振りほどくかのように、僕は、 「あ、そうだ。よかったら今晩、一緒に食事でもしません?」
 日本語で言った。
 彼女は少し首を傾げて、
「うーん、どうするか分かんない・・・。でも、夜も広場にいると思うし」

 夕食時に、広場へ出向いた。カオリさんはいなかった。

 次の日も二人はいた。バナナを食べながら、何やら話に興じていた。
 僕の登場によって、座の空気は一段と希薄になったようだった。夕べは何食べたの?チキンカレー。今朝は?まだ何も。今まで寝てたの?寝てたよ、パパンは?朝から店だよ。店番しなくってもいいの?お客が来たら、すぐ分かる、ノープロブレム。
 そしてチャイをご馳走になる。店を覗く。
 広場に戻って二杯目のチャイ。
「ご馳走になってばかりで、何だか悪いような気がするんだけど」
 首を傾げてカオリさんを見る。
「私も。でも、いつものことなの。彼、日本人が訪ねてくるのが、嬉しいみたいだし」
 屈託なく、彼女は笑った。
 カジュラーホー、まだいるの?たぶん。もうお寺は見て回ったの?うん、毎日見てるよ。
 僕は座を外れた。

 広場にある、一軒の安食堂の壁書きに目を留めた。「Madras Coffee」と大書された外壁だ。ドアもなく、段差だけで室内外を分け隔てられた薄暗い店内に入り、隣の机に置いてある、クリア・ファイルのメニューを手に取った。
 「DRINK」の欄には、しっかりと「Madras Coffee」と記されていた。けだるそうに歩み寄る主人が立ち止まるよりも先に、「マドラスカフィー、プリーズ」と告げた。主人は足を止める。
「ノー、マドラス」
  彼はまた僕のテーブルに歩きはじめ、僕の手からメニューを奪うと、
「ディス、イズ、ベストワン」
 と、一つの品書きを躊躇いもなしに指さす。横から覗き込んでみると、「Special Nescafe」の文字があった。運ばれてきたコーヒーカップの中身は、確かに薄いネスカフェだった。眠気が襲ってきそうなほど。
 ちびちびとコーヒーを啜っていると、若い、というより幼いといった方が適切な、つやつやの肌をした少年が現れた。
「おはよごじあます?」
 漫才師のようなトーンの日本語を喋りだした。眉間に皺がよるのが、自分でも分かる。
「ちがます、ちがます、ぼくあやしくない、スチューデント、がくせですね」
「グッドモーニング」
「ぼく、にほんごわかるよ、にほんごではなしてもらてもだじょぶね。がっこでにほんご、べんきょしました」
 学生、学校、それに日本語という単語が三回。会話の切り出しは前座の漫才師より怪しかった。
「あなた、さっきぱぱんとなかよくしてましたね。ね?」
「見てたの?」
「ちがます、みえました」
 僕は微笑した。彼はますます雄弁になった。
「ぼく、なまえはちゃんだ、よろしく。あなた、なまえは?」
 聞き終わるやいなや、さっと手が差し出された。脂で汚れた薄黒い手だった。インドで日本語を習うようなレベルの学校に通 っている人たちは、まずこういう掌を人に見せたりはしない。
「よろしく、おあいできてうれしです。あなた、かじゅらほながいですか?」
「長くない」
「そですか、かじゅらほいいところです、ながくいるいいです」
 こちらの日本語までおかしくなりそうだ。
「あなた、ぱぱんといつもなかいいね」
「いつも?昨日からだよ」
「おー、そですか、すいません」
 謝罪するわりには悪びれたところなど、微塵もない。
「でもね、ぱぱん、きをつけたほうがいいよ」
「気をつける?」
「そうね。ぱぱん、いつも、にほんじんのおんなのこといるね。あのおんなのこ、だまされてるね。ぱぱん、ぎふとうりたい、にほんじんにやさしくしてるね」
「あ、そう」
「あなた、きをつけないとだめね」
 さかしらに言う。
「大丈夫だよ。ノープロブレム」
「おー、そですか」
 会話はそこでやっと途切れた、のも束の間だった。
「あなた。かじゅらほおてらゆうめい。もうみた?」
「見た」
「そですか、でもいっぱいおてらある、さんぽする?」
「散歩はいつも一人でしてるよ。大丈夫」
「おー、そですか」
 また、僅かな沈黙が僕らの間をよぎった。しかし、本当に一瞬だった。
「ぼくかじゅらほくわしいね、いっしょにいきますね」
 何もなかったかのように、再びチャンダは話し始め、中腰になって僕の腕をぐいと引っ張った。反射的に僕はその腕を振り払う。
「いいよ。疲れてるし」
 苛立ちがぴりぴりと流れる。
「おー、つかれたですか。まだあさですね」
 僕は喋りかけるチャンダを見ることもなしに、その場を立ち去る。背後からは慌て声が聞こえてきた。
「ちょとまってくださあい。ぱぱんだめね、あなたわからないひとね」

 深い藍色が満ちた中、僕は再び広場に出向く。
 奥まったパパンの店先に、彼とカオリさん。一斉に手を振った。
「今日は僕の家でディナーを食べよう。ママが用意してくれる」
「いいのかな?」
「ノー、プロブレム」
 僕の頭の中に、先ほどのチャンダの言葉が蘇ってきた。そうでなくとも、躊躇してもおかしくない状況だった。パパンが押しかぶせるように、
「ノープロブレム」
「カオリさん、どうするの?」
 僕は彼女に向き直った。
「うん、行こうかな。実はね、こないだもパパンの家でご馳走になったの。彼の家族がみんなで歓迎してくれて。ねえ、一緒に行かない?」
 やがて陽も沈んだ。
 手招きしながら歩き出すパパンの後を、僕とカオリさんが追いかけた。
 中心部を抜けると、街路灯もなくなる暗い道しかない。土壁や煉瓦に穿たれた小さな穴のような窓から漏れる灯りと月だけが頼りだった。
 角を曲がる度に道は細くなり、やがて路になり途になった。牛糞とゴミが散乱していて、夜の中で異臭がより痛烈に拡散していた。僕は道筋を失わないよう、曲がり角ごとに記憶を焼き付けていた。その暗闇のせいで、僕はさらにもまして臆病になっていた。
「着いたよ」
 セメントで造られたその家は、一般的なインドの家屋に比べると、はるかにましな外観だった。ドアの内側は明るく、暗路に慣れた眼にはまぶしいくらいだった。
「×××××××!」
 ヒンディー語で何かパパンが叫んだ。奥から子供が駆け出してきた。続いて、ゆっくりと、サリーを纏った婦人が姿を現した。
 彼女はにっこりと笑う。パパンは二人を紹介した。こっちが僕のお母さん、こっちのチビが弟なんだ・・・、兄貴と父さんは仕事でここにはいないんだ・・・。
 勧められたソファに腰を下ろす。
「今夜はママの手料理ディナーだ」
 僕にそう告げた後、
「×××××××」
 パパンは何やらママに話しかけた。ママは笑いながら、カオリさんを手招きで呼び寄せ、連れだって奥に消えた。
「ママのお手伝いをするんだ」
「僕は?」
「君はゲストだ、ここでゆっくりしていればいいよ」
 パパンが隣に腰を下ろす。ゲストホストというわけではなく、台所仕事は女の役割、といったほうが正しいのだろう。
「僕も、台所を覗いてもいいかい?」
 パパンは僕を台所に案内した。
 台所は土間になっていた。とはいえインドでは靴のまま部屋に上がるので、台所だけが「土間」という表現は正しくないのかもしれない。電灯もなく、ただガス火とかまどの炎に照らされた僕たちの影が揺れていた。香辛料の香りが一面 にたちこめている。
 ママはコンロでカレーを作り、カオリさんはかまどの前でチャパティーを見守っていた。
「パパンは料理しないの?」
「ああ。君は?」
「するよ。独り暮らしだしね」
「僕にはママがいるから・・・」
 照れくさそうに彼は苦笑いをした。
 テーブルに並べられた手作り料理を前に、パパンが僕とカオリさんにビールを注いでくれた。その瓶ビールを今度はカオリさんが手に取り、パパンのグラスに泡を立てる。彼は嬉しそうにその仕草を見た。麦の香が濃いビールだった。
 食卓には二種類のカレーとチャパティー、それに小さな玉葱のサラダ、揚げ物が並んだ。家庭料理だからといって格別 に味付けが独特というわけでもなく、わりに食べやすかった。香辛料のせいでどこのどんな食べ物でもそれほど違和感を感じずにすむというのが、インド料理に対する僕なりの逆説的な感想だった。
 ママと弟は英語に堪能ではないので、パパンの会話量はやはりここでも圧倒的に多くなった。それは食事の後も続いた。僕は腕の時計を見た。もう十時を回っている。
「だいぶ長居しちゃったけど、どうしよう?」
 カオリさんに耳打ちした。彼女は僕の腕時計を覗き込んだ。 「ほんとだ」  あっけらかんとした様子だ。 「どうかした?」
 パパンが訊く。
「いや、だいぶ夜遅いし、迷惑かなと思って」
  僕とカオリさんは礼を言ってパパンの家を辞し、彼の案内で星降る夜道を街へと戻っていった。

 また朝が来た。相変わらず、暑くそして乾いた空気の朝だ。
 朝食を摂ろうと、いつものレストランに行くことにした。目と鼻の先だ。
「おはよごじあます」
 僕は脇目もふらず先へと進もうとした。
「ちょとまてくださあい、ともだちね」
 チャンダは僕の左袖をぐいと引っ張った。
「きょうはどこいきますか?」
「朝ご飯。ブレックファースト。バーイ」
 僕は顔の高さでひらひらと手を振った。
「ちょとまてくださあい、あなた、きょはなにしますか?」
「・・・特に何も。・・・何も決めてない」
 チャンダは小鼻をふくらませた。
「ぱぱんのとこですね?」
 僕は鼻白んだ。
「あなた、わからないひとね、ぼくのこと、きいたほがいいね、ぱぱんはなすのじょうずね、よくひとだますね、あなた、だまされるね、ぱぱんのしごとしってるね、おみやげ、ぎふとうってる、あなた、ぱぱんのぎふとかうね、あそこ、いいぎふとない、あなた、だまされるね」
「サンキュー」
 彼の一服を待って、ようやくそれだけを口にした。
「おー。わかりましたか。ぼく、にほんごだいじょぶね。ぼく、かじゅらほくわしい、ぼく、あないします」
 口もきかずに歩き出す。
「ちょとまてくださあい」

 どこからともなく声がかかった。僕は彼の隣に腰を下ろした。
  日本はどんなところだい?カジュラーホーには日本人もたくさん来るけれど、独り旅が多いね。
「僕もだよ」
「そうだな。・・・でも、わざわざ寂しい思いをすることもないだろう?」
 返事が思いつかなかった。理由があるならば、旅にも出ていないような気がした。
「『ガールフレンド』はいるのかい?」
 誰も思い出さなかったといえば、嘘になる。
「ああ・・・。今はいないよ」
 Well, now I don’t have.
 彼は僕の微妙な「now」など、ことさらにも気にとめた風になかった。
「そうか、だから独りなのか」
 合点がいったようで、彼は勝手に頷いていた。

 独りなんだ。
 だから、ここに独りでいるんだ。

「なあ」
 彼は殊更に声を低め、僕に顔を近づけて囁いた。
「おまえは」
 セックスをしたことがあるか?
「・・・あるよ」
僕のストレートな返事に気をよくしたのか、
「そうか、相手はなんだ、やっぱりその、ジャパニーズか?」
「そりゃね」
 彼は思い詰めたような顔で、ほうっと息をついた。
「・・・俺も、ジャパニーズ・ガールが欲しい」
 僕は懺悔を聞く神父のようになった。
「日本人の女の子、カジュラーホーにもいっぱい来るだろう?」
「ああ、でも、難しい。どうやったら誘えるんだろう?」
 彼は天を見上げた。毛を刈られる直前の、羊のような眼をした。
「なあ、教えてくれよ」
「教える?」
「そうだ。どうやったらジャパニーズ・ガールを口説けるのか。同じジャパニーズなら、分かるだろ?」
 彼が羨望してやまない『ジャパニーズ・ガール』と性交をしたことのある僕は、それだけで「教えを請うべき先達」になっているらしかった。真面 目そのものらしい彼にジョークで応酬することもできず、僕は仕方なく道を諭すことにした。
 そうだねえ、口説くのは夜がいいね。
 夜か。そうだな。
 彼の脳裏には「夜」の一言だけで、既に様々な思いが交錯しているらしかった。
 そう、星が出ているような。星を見ながら口説くんだ。ロマンチックなシチュエーションには、女は弱いもんだろ?
 うん、
 最初から迫ってはいけない。スロー、スロー、イッツ、インポータント。
 うん、
 三日ぐらいかけて口説くんだ。三日目の夜に、ベッドに誘ったらいい。
 至極真面目な顔で、彼は何度か首を振った。
「これでいいかい」
「ありがとう」
 彼がどんな思いでこの阿呆らしい教授を受けたのか、僕にはさっぱりわからなかった。去り際に、
「パパンはいい」
 ぽつりと言った。
「知ってるだろう?彼がジャパニーズ・ガールといつも一緒にいるの。ここしばらくずっとだよ、あれ。羨ましい話さ、まったく」

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