軛の消滅と革袋の溶解 -情報のあり方についての一考察-

軛の消滅と革袋の溶解 -情報のあり方についての一考察-◆はじめに

インターネットの普及は我々に様々なインパクトを与えた。この風変わりなメディアは、その力を誰もが認めざるを得ないほどに大きくなったにもかかわらず、未だ正体の判然としない怪物のように語られたりもする。

このインターネットとは、何者なのか?

現状において、インターネットは情報という財を流通させるためのメディアとして機能している。そしてこのメディアは、情報というものの本質的なあり方を剥き出しにして、誰もに分かりやすく明示し続けている存在でもある。
ここでは、情報という財の特質を考察するとともに、今後の社会において、情報というものがインターネットによってどのように取り扱われるかについての考察を行いたいと思う。変革はまだ過渡期であり、筆者の未熟もあって、完全な形式を備えた論説とはとても言い難い。が、及ばずながらその一端を解明できればと考えている。

▼備考
モノ:ここでは、「物質的形状を持つ存在」と規定する。

価値と価格:ここではこの両者を区別する。価値とはそのものの効用であり、価格とはそれを貨幣によって置換・計量した数値のことである。

プライシング(=価格付け):価値を価格に置換する行為を、ここではプライシングという言葉に統一する。

◆第一章 現状

▼希少性という概念

資本主義の原則として、財は市場において取り引きされる。この場合の前提として、財の価格は需要と供給によって決定されていることが必要となる。つまり財のプライシングには、その供給量=「希少性」が限定されなければならない。
また、財は必ずしも入手が容易な場所にあるとは限らない。財は供給者のもとから需要者のもとまで運んでやらなければならない。これが流通の基本的概念である。

原則
「財は希少性を持つがゆえに、プライシングが可能である」
「需要者が財を利用するためには、多くの場合流通チャネルが必要となる」

市場メカニズムの必要性はほとんどこの2点に起因している。仮に無尽蔵にその財が存在し、入手が容易であるとすれば、その財の価格はゼロに等しい。市場メカニズムを用いて分配する必要がないからだ。
そしてこのモデルは「モノ」を扱うときにはきわめて有効である。いかなるモノといえども、無尽蔵ということはないし、物理的形状を持つがゆえに、流通は必須である。

ところが、この需要・供給モデルによるプライシングを拒む財が、我々の社会には存在する。それがいわゆる「情報」である。情報は前述の原則のうち、稀少性を無視する存在であり、流通のあり方を根本的に見直す必要のある存在である。

▼情報の定義

もっとも、情報の定義は簡単ではない。ここでは便宜的に

他者とコミュニケートされる人間精神の創造物。それは「物的生産物」に対立する概念としての「知的生産物」である。(坂本晋:「情報産業社会の演出者」より筆者要約)

との定義を援用し、「情報とは、他者とのコミュニケーションを前提として記号化された、物質的形状を伴わないもの」とする。

▼従来の情報プライシング

ここではまず、従来行われてきた情報のプライシング・セオリーについて考察してみたい。

情報は必ずメディアによって運ばれてくる。情報というものが物質的形状を持たない以上、流通のためには何らかのメディア、物質的形状を持つ必要性があるためである。そのためにメディアは何らかの希少性をも保有している。具体的には、

印刷物・・・「紙」
レコード・・・「レコード盤」
映画・・・「フィルム」
テレビ・・・「受像機と送信機」

などが例示できよう。情報はこれらのメディアによって流通されることによってはじめて、モノの経済モデルで取り扱えるようになった。

つまり我々は確かに「情報」に対して金銭を支払っていたのだが、実際にはメディアに対しての支払いであるからこそ、そこにモノを前提とした経済モデルを当てはめることができたのである。
逆説的にいえば「何らかの形で物質的形状を持つメディア」であったからこそ、そこで流通する情報にプライシングができた。このことは、現在の情報へのそれを見ても明白であろう。テレビというメディアは比較的高コストであるが、それこそがテレビメディアによって流通される情報に高価値が付与されがちである根拠となる。情報それ自体の価値の高低とは、実は関係がない。

定義
情報のプライシングは、情報それ自体の価値以上にメディアの価値に依拠している。

▼従来のプライシングの問題点

ところが、この媒体に納められた「情報」だけを取り出してみれば、それは希少性という概念が存在しないことに気づく。

原則:情報は複製が可能であり、劣化しない(=その効用は減少しない)。

という理由による。問題は複製コスト、つまりは流通コストであるが、コンピュータネットワークとそれに連なる記憶装置を用いた複製の場合、従来とは桁違いのコスト減少が起こった。
この場合、従来のような方法で情報に希少性を持たせることが困難になった。従来のモノの価値に擬されたプライシングの崩壊である。
情報という財は、既存の経済モデルに則って流通させることが原理的には不可能なのだ。インターネットというツールは、このことを多くの人間に理解させた。

ここでもう一度整理しておくと

定義
情報そのものには希少性がなく、メディアに希少性を持たせることで一般の経済原則にあてはめることができる。
ところがインターネットの出現と記憶装置の低価格化により、メディアの希少性は極めて主張しにくいものとなり、体系が崩壊しているのが現状である。

▼もう一つの希少性 時間

ここまでの議論では、希少性を「モノの存在」と定義した考察を行ったが、希少性にはもう一つの定め方が存在する。それが時間である。
そこで、情報と時間との関わり方について考察してみよう。

情報作成 その情報を作成(=明示化といってもよい)するためにどのくらいの時間コストが生じたか。
情報の消費 その情報を受け取るためにどのくらいの時間コストが生じたか。

情報を従来の経済システムに合致させるために、時間という希少性を係数に用いた置換方法を用いることは一見容易にみえる。
ところが、これにもやはり問題が山積している。作成側からいえば、

・情報作成者の能力とは無関係に、作成コストが算出される。

例えるなら、腕の良いエンジニアが1ヶ月で作成したシステムと、凡庸なエンジニアが2ヶ月費やしたシステムのレベルが同じ場合、時間を測定ツールに用いると、システムの内容が同等であっても後者の方が高い貨幣価値に換算される(現実にもそのような事例は数多い)。

消費側からみても、

・情報消費者にとっての有用性とは無関係に、情報の価値が決定されてしまう。

これは時間がまさにsunk costである点に原因している。消費者が情報処理に費やす時間は情報使用コストでもあると同時にその情報の検証コストでもあるが、仮に検証した情報が消費者にとって無価値であったとしても有意義であったとしても、費やす時間は同じである。つまり時間とは、情報の価値と無関係なコストなのだ。例え消費の途中でその情報を無価値と判断し、消費を中断したとしても、費やしたコストつまり時間は二度と返ってこない。

時間は、生産と消費の両面におけるsunk costの算定が容易であるという点において、それなりに意義のあるシステムではあるが、やはり問題点が多い。

▼時間あたりの情報量

先ほど、メディアコストの高さからテレビの稀少性を論じたが、もちろんテレビメディアで流通する情報価格の高さはそれのみに起因するのではない。
テレビはそのメディアの中に、複数の記号特性を流通させることができるメディアである。文字、音声、映像など。これらは同時に流通されるため、時間あたりの情報量が極めて多いメディアである。大変コストパフォーマンスが高いメディアである、ともいえよう。この点こそがテレビメディア情報が高価格である主たる根拠であろう。
ところで、情報はその量と価値が比例しない。多量であっても、その情報に効用がなければ意味がないのだ。この点も、情報そのものの価値とメディア価値が乖離する一因になっている。

▼インターネットの問題点

「インターネットはタダ」という考えは広く流布している。そしてこの考えは、情報というもののあり方と照らし合わせると、あながち間違いではない。流通コストの激減を還元しているからだ。
問題なのは、「情報作成」に関するコストすらも無視されてしまうことだ。
従来は流通コストに作成コストを付加して販売されていたのだが、そのスキームが根本から崩壊したため、情報を作成した人間に対する還元方法が消えつつある。
もちろん、代価を求めないグループや、無料メディアと有料メディアを使い分けるグループも存在する。前者の代表例としてはソフトウェアのフリーソース運動、後者には音楽などのサンプル配信が挙げられよう。しかしながら、根本的な問題の解決には至っていない。
情報作成コストを、どのようにして社会が負担していくべきか。この点については、第三章にて考察する。その前にまず、情報コストのプライシングの歴史について辿ってみることにしたい。

◆第二章 情報プライシングの変遷

▼歴史を振り返る

情報生産者の中には「音楽家」というカテゴリがある。ネットでの情報流通が盛んになり、もっともその収入チャネルが脅かされているとカテゴリということもできる。

ここでは、現在のようにメディアが発達するはるか以前の音楽家たちについて思い起こしてみることにする。

現代にも「クラシック」としてその作品を多く残す、中世の偉大な芸術家たちの多くは宮廷や貴族たちの「お抱え音楽家」としてその生計を営んでいた。彼らは創り出す交響曲一本いくらという代価を受け取っていたのではなく、定期契約を結び「交響曲を創造する才能」に対する代価を受け取っていた。

現代と大きく異なるのは、その価値の源泉を「生み出された情報」に見出すのではなく「情報を生産する才能」に設定した点であろう。この点は非常に興味深い。また、彼らが提供するのは音楽のみでない。貴族たちはこの対価の支払いによって、「有名人のパトロン」というブランドも手に入れることができた(このあり方は現在でも残っている)。

おそらく、これはメディアがほとんど存在しなかったことに起因するのではないだろうか。逆に言えば「本人自体がメディアであった」ともいえる。有名な音楽家に限らず、町を経巡り歩く吟遊詩人や、ニュースの配達人も兼ねる商人なども、人間がメディアであった一例である。この時代にも印刷物メディアは存在したが、まだ普遍的なチャネルとはなり得ていなかった。

このような光景は、メディアの発達とともに次第に失われていった。情報がモノによって運ばれる時代が到来したのである。
グーテンベルグに始まりエジソンに至る発明によって、情報はモノを媒介として複製されるようになった。情報の価値があたかもその器の価値、つまりメディア希少性によって決定される時代に変化したのである。

▼近代なる過程

近代社会は普遍的な単位としての「貨幣」による価値の測定・交換を前提に成立した。もちろん近代以前にも貨幣は存在したし、同様の役割を担ってはいたが、近代ではその影響範囲が桁違いに広い。少々大げさな言い方をすれば、近代社会は全てを貨幣に置換することで成立しているのである。
もちろんこれによるメリットは大きかった。コミュニケーションというものを「互いの価値の交換」であると定義するならば、貨幣なるメタ単位の投網を広く投げかけることによるコミュニケーションは、その範囲の拡大が容易であったからである。「世界は一つ」なる概念の誕生に果たした、貨幣の役割は極めて重要である。

近代のもう一つの特徴は「細分化」という点であろう。近代は「構成要素を細分化することが世界への到達である」という信念に基づいていた。様々なポストモダニズムによってその信念は揺るぎ始めているが、現在でも大勢はここにある。

定義
・貨幣が普遍的なメタ単位として根付くことにより、価値交換の範囲は拡大した。
・構成要素を細分化して認識することが近代の欲求であった。

そして両者が結びついたとき、近代は

定義
・測定が容易な細分化されたファクターに対し、貨幣をもって価値を決定する。

というポリシーを生んだ。
これこそがまさに「中世」と「近代」の間にある価値測定の分水嶺であろう。議論の対象を情報に限定すると、価値の測定対象は「情報を生み出す才能」という曖昧なゲシュタルトにではなく、「既に生み出された個別の情報」に対してこそ行われるようになったといえよう。極論を言えば、モーツァルトのような中世の音楽家が仮に今生きていたとしても、彼はレコードを売り上げて金を稼ぐことしかできないのだ。

このようにして、情報は希少性の測定が容易な、様々なメディアによって流通されるようになる。現在の情報流通はここでその原型が完成した。

定義
・情報は細分化され、メディアという器に入れられることによって流通される。同時に、その価値はメディアという器の価値ごと測定される。

▼近代の妥協

近代が目指したものは、「万人に通用する合理性」であった。前項で述べたやり方は、少なくとも「万人が納得しやすい基準」ではあった。
繰り返しになるが、このパラダイムを成立せしめたのは、貨幣の存在である。誰もが価値測定の共通言語として貨幣を用いることにより、つまりは単位を貨幣に限定することにより、社会はそのコミュニケーションコストを低減することに成功した。同時に測定対象をできるだけ細分化することにより、誰もが簡単にその測定を行えるように配慮したのである。逆に言えば、近代はコスト減少を錦の御旗に掲げ、それを成立させるためにこれらの手段を用いたのでもある。

そしてこの理念を成立させるために、近代はある妥協を行った。
価値の測定にもコストは存在する。同時に、価値測定の対象を細分化すればするほど、そのコストは増大する。価値測定コストはあくまでも測定1単位につき定量的に発生するため、細分化によって対象が増えれば増えるほど、その価値とは無関係に測定コストは増え続けていく。このため、近代では「価値はある程度まとまった単位でしか存在しない」という暗黙の諒解を行った。
例えば、音楽を作成するアーティストの行為は、

楽曲のモチーフを思いつく。
楽曲モチーフをあるカテゴリーに配置する。
カテゴリーの条件に従い、メロディーを思い浮かべる。
メロディーを、再現可能な明示情報(楽譜)に置換する。
楽譜を修正する。

などの行為、実際にはさらに細かなファクターの合成であると推察されるが、多くの場合、価値換算されるのはこれらを総合した「楽曲」に対してである。あるていど大きな複合体に対して価値測定をしなければ、そもそもコスト的にそれは機能しない。近代はその他の理念よりも、コストなる概念を優先したのだ。
このため「ファクターを細分化する」と前述したが、実際の行為は測定コストに見合うレベルでの細分化でしかない。現実には価値測定コストに見合う点まで合成できない価値は、そもそも測定されない。
このため、近代においては様々な情報価値が切り捨てられた。

▼問題点の要約と情報だけの価値

いったん、考察した問題点を大きく要約してみる。

定義
・情報それ自体には希少性が存在せず、代替としてメディア希少性を用い、モノを取り扱うことを前提とした経済モデル上に乗せた。
・時間はコスト算定要因として重要ではあるが、情報の価値とは無関係である。
・貨幣という測定単位の使用を容易にするため、近代は情報の細分化を行ったが、コスト低減をも同時にテーゼと設定したためその細分化は妥協点にとどまり、逆に細かな価値の切り捨てが発生した。

いずれにせよ、生業としての情報生産を成立させるには、どのみちその価値を貨幣によって測定していく必要がある。それも、従来のやり方とは異なるアプローチで。メディア希少性に依拠することなく、細かな価値を切り捨てることなく、貨幣価値に置換できるやり方で。

ここではそのための課題を、

・情報価値の特性
・情報価値の測定主体
・情報価値の測定方法
・情報価値のプライシング(=貨幣への置換)

以上の点を策定することと定め、このための考察を行いたい。

◆第三章 情報の特質と新しいメディア

▼情報の動的価値

まず、情報価値の特性について考察する。
ここでは、価値とはそのものが持つ利用時の効用であるという前提のもと、情報の作成者ではなく、消費者=受け手から見た場合の情報価値について取り扱うものとする。

情報の特質として

定義
・情報とは、他の情報と結びつくことにより、その効用を利用できる。

という点が挙げられる。この意味では常に情報の価値とは相対的なものであり続け、一意に定まるものではない。
また、どのような「他の情報」が、どのような「位置づけ」になっているのかは、消費者個々人によって全く異なる。音楽に例えてみよう。
ある消費者に対し、モーツァルトのピアノ協奏曲、という情報が与えられたとする。
このとき、消費者が

・モーツァルトの音楽は素晴らしい

という情報を保有している場合と、

・モーツァルトの音楽は全く大したことがない

という情報を保有している場合では、新しくインプットされるモーツァルトの音楽という情報価値には、おそらく消費者ごとに大きな差異があることが予想される。情報の価値が動的であるというのはまさにこの点にある。
極めて単純な行動モデルとしては、

情報を受け取る。

既に保有する別の情報との関係性を検証する。

情報の価値を決定する。

また、ここでの価値測定には、原則的に情報作成コストは全く考慮されない。

先に、「希少性の欠如のため、情報はモノと同様の形で市場取引を行いにくい」と主張したが、市場取引を行いにくい原因のもう一つはこの点にある。客観的(ここでは多数が合理的であると認識できるという意味)な消費効用が定めにくく、検証は受け手個々人が行わざるを得ないため、取引コスト自体が高いものになる。

蛇足ではあるが、企業、とりわけ俗に言う第四次産業においてブランディングが重要なのはこれを理由としているように思える。多くの消費者に対し、売り物である情報が、客観的な価値があるかのように刷り込むための手段、それがブランディングであるというのは言葉が過ぎるだろうか。

▼権力の移行

プライシングという行為について考察してみよう。
プライシングとは財の価値を貨幣単位に置換する行為であり、多くの場合、市場メカニズムに従って行われる。そして、市場メカニズムの成立要件として、この財の価値が普遍的であるという前提がある。
既に繰り返し述べているように、情報の価値は動的であるためにこの前提を満たさない。これこそが、情報プライシングはメディア稀少性に依拠した理由でもある。
同時に、この主体となったのはメディアの運営者、なかんずくマスメディアである。つまり情報の価格には、消費者の意志が直接的に反映しにくい仕組みになっていた。
既に言い古された議論であるが、インターネットというメディアはプライシング主体の交代を促す。特に情報分野においては顕著になるだろう。情報の価値が受け手によって異なる以上、その効用を測るという意味合いにおいて、情報の価格は受け手によって決定される方が合理的だからだ。

▼情報縁

既存の流通チャネルとそのスキームが情報の貨幣価値を決定する能力を喪失した以上、新しいメディアを用意し、そこでの情報検証機能と貨幣価値への換算機能を構築する必要がある。
近年、社会学的な見地より、「情報縁」という概念が提唱されている。簡単に説明すると、

定義
・情報縁とは、ある特定の記号に対して強い反応を示す人々の集まりである。

といえよう。

情報縁で形成されたコミュニティでは、良い意味で情報の動的価値のぶれが少なくなる。情報縁で結びついた集団は、既に保有する情報も近似する場合が多く、新たにインプットされた情報への閾値も似通った度合いに落ち着くためである。
そのため、ここでの情報検証とその価値付けはうまく機能している。これは情報価値を貨幣価値に置換する場合において、有効なスタビライザーとなる潜在的可能性を秘めている。

これは情報の動的価値の検証機能を、個々人ではなく、彼らが主体的に関与できるコミュニティに吸収することにほかならない。情報縁コミュニティは単にメディアとしてではなく、それ自体も擬人化された存在として振る舞うのだ。

インターネット上のコミュニティは、この情報縁概念を極めて効率的に運営できるメディアとして位置づけられる。メディアコストが低いため、そこで流通される価値は比較的純粋な情報価値に比例している。
もっとも現状では、ネットコミュニティは情報価値から貨幣への換算チャネルを保有していない場合が多い。情報流通の面において、インターネットがサブカルチャー的な臭いを完全に払拭できないのはまさにこの理由による。

そこで、次項からはネットコミュニティにおける情報検証方法を明示化してみるとともに、そこで採用できそうな貨幣価値への換算方法を検討してみることにする。

▼情報検証チャネル

多くのネットコミュニティでは、以下のような行動モデルにもとづいた運営が行われている。

・あるカテゴライズに基づくコミュニティを形成
 ↓
・そこでのインタラクティブなコミュニケーションを通じ、作成者の才能そのものの希少性をコミュニティで秩序づける。
・このコミュニティにおいては、作成者と消費者の区別はなく、誰もが作成者や消費者になることが多いため、明確な序列を位置づけしやすい。ただし、この序列はそのコミュニティ内部でしか通用しない。
 ↓
・序列に従い、ある作成者が作成した情報も序列づけられる。
・同時にこの序列付けは、作成者がコミュニティに占めるポジションの限界効用に比例する。コミュニティ参加者の有為な能力の合計こそが、情報縁コミュニティの価値そのものになるともいえる。

既存のメディアももちろんこれに似た秩序付けを行ってはいるのだが、前述したとおり評価を消費者が直接行うことができないという欠点がある。ばかりでなく、時によっては価値付けに不必要なバイアスを生じさせる、「マーケティング」という怪物が介入しすぎる。

同時にネットコミュニティでは、従来では価値付けできず流通さえも切り捨てられた細かな情報も、総体的に作成者へ関連づけることにより、作成者自身の価値を上げるという方法によって還元している。これを可能にしたのはおそらく流通コストの低さが大きな要因であろう。

▼貨幣価値への換算チャネル

次に行うべきは貨幣価値への換算である。

情報検証機能を持つネットコミュニティは、貨幣価値への換算チャネルとしても適当ではないか。それはコミュニティの情報検証能力が高いことによる。同時にコミュニティは情報価値付けを作成者の序列化によって機能させてもいるからだ。

ネットコミュニティは多対多のチャネルでもあり、評価が通用する範囲を限定することによって、市場メカニズムを取り入れているメディアであるともいえる。これはプライシングを容易にするポイントである。このようなポリシーに従って、情報というものが稀少性を前提としたモデルにそもそも馴染まないという問題点を解決していくのがコミュニティにプライシング・チャネルを与えることの意義であろう。

貨幣モデルへの置換は「希少性」にもとづくほか仕方がないのだが、では情報に関連し、その価値を決定づけている因子のうち、「希少性を持つ」因子は何であろうか。結局、「情報を生産することのできる個人」しかない。そして、その個人の才能に応じて、その希少性を算定してやるしかない。作成者に対しての報酬は「作成した情報ごと」ではなく、「才能丸ごと」に対して行うことはできないだろうか。
これはある意味中世システムの再現でもある。中世と大きく異なるのは

・チャネルが大規模な多対多インタラクティビティーを保有する

という点である。

ここでは、換算基準として挙げられる考え方を列挙してみる。

・コミュニティで評価された才能を「資格」として認定する。

「大学卒」「○○資格」という肩書きは、ひとえに保有者の労働単価を上昇させる機能と、保有者の信頼性検証機能を持っている。同様に、これからは「あるコミュニティで高い評価を得る」ということが、労働単価と信頼性を保証できるような仕組みを作成できないだろうか。

・コミュニティは、才能と才能に報酬を支払う能力を持つ別セクター(例えば企業など)との仲介者となる。

この場合、コミュニティは「人材派遣センター」的な役割を持つ。既存の労働者斡旋業と異なるのは、企業側の信頼性検証コストを低減しやすいというメリットが付随的にある点であろうか。この場合、コミュニティはただ場を提供するだけでなく、コミュニティ参加者に対してスキルアップの機会を提供することも必要になるであろう。

・コミュニティが企業化し、才能に報酬を支払うと同時に支払い能力のあるセクター(例えば企業など)がコミュニティのパトロンとなる。

これは仲介者モデルに似ているが、報酬支払いのプロセスが異なる。仲介者モデルでは報酬が直接支払いセクターから才能に支払われるのに対し、このモデルではいったんコミュニティが報酬を受け取り、それを才能の評価に応じて配分するという形になる。ここでの問題点としては、コミュニティが才能に報酬を配分する基準を、かなり厳密に定める必要があるという点であろう。

いずれにせよ、情報価値に対して支払い能力のあるセクターを、いかにしてスキームにインボルブしていくかが重要な目標となる。同時に、コミュニティでの評価が外部評価と換算できるようにするために、「コミュニティ自体の価値」をも高めていく必要がある。
そのため、コミュニティ生成は、その情報価値が比較的評価されているセグメントから進めていき、スキーム自体への信頼性を高めていくやり方が、最も具現的であろう。具体的には、コンサルタント、科学者、医師、プログラマ(この領域では、既にLinuxという成功例が存在する)などがあげられる。

実は近代においても「才能丸ごと」への報酬支払いは行われていた。旧ソ連などの共産主義圏では、優秀な人間に対しては衣食住を保証するという形をとっていたのである。
もっとも、この場合は対象となる才能の数があまりにも少なすぎるということ、客観的な評価の場があまりにも少なすぎるという問題を抱えていた。本題からは外れるが、共産主義圏で才能のボトムアップが不可能であったのはここに起因していたのではないだろうか。民主主義に基づかないシステムは、コミュニティ自体が機能しないのである。

▼残された課題 具体的な情報の価格

プライシング・ポリシーは出来上がっても、ではいったい「いくら」支払うのか。この点も現状では定まったやり方は提唱されていない。この点については、おそらく「コミュニティ機能の成熟」を待つまで、しばらくは試行錯誤が繰り返されると予想される。今後、この課題に対しては、別途考証を行いたい。

▼残された課題 情報の転売

結局のところ、情報は複製可能であるという点だけは解決できない。もちろんこのために、著作権制度を前提にした様々な方法が考案されてはいるが、複製を禁止することによる情報流通の阻害デメリットも大きい。
支払い能力を持つセクターが、如何にして作成者の才能を有効活用し、報酬を払っていくべきなのか。この点についても今後考証を行いたい。

◆おわりに

インターネットは、完全とはいえぬまでもかなり理想的な情報縁を結成するための大きな役割を果たしたし、今後もそれ以上のはたらきを担っていくのだろう。インターネットが革命的であるとするならば、おそらくこの特性こそがそうだ。

すでに言い古されている台詞ではあるが、情報はかなりの割合でアトム=物質のくびきから解き放たれ、「ビット」の部分だけが拡散する社会になりつつある。もちろん、純粋にアトムの束縛を脱出することは不可能ではあるが、それが無視できるくらいに小さな割合になることは、既に夢物語ではない。

今回、拙いながらも情報の価値、そして価値付け、流通の考察を行った。
既存のメディアを前提にしたやり方で情報を縛ることは、情報の性質との間で根元的な矛盾を起こしている。インターネットはその矛盾を多くの人の目にさらし、そして解決を迫った。今後、新たなるパラダイムが構築されていくのか、それとも古い革袋を守り続けるのか。問われているのはその選択である。

最後に、稚拙な小論をお読みいただいた方に感謝する。この論説ともいえぬ戯言が、皆様に対して幾ばくかなりの「動的価値」を与えることができたのであれば、これに勝る喜びはない。

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