歪んだ日本と近代の原則

歪んだ日本と近代の原則「理念ある官僚」「実行力溢れる政治家」。いい言葉だ。一見麗しい公僕の姿だけれども、本当にそれでいいのだろうか。

善悪という概念は主観的なものであり、簡単に線引きできるものではない。だからこそ選良たる政治家が、おのれの信念に基づいて善悪を表明する必要があるのだ。しかしながら、官僚という実務的組織が善悪を自己決定してはならない。テクノクラートは、あくまでもある目標への最適解を合理的に算出すべき存在であるべきで、自分の理念や主観によって政策を決定してはならない。原則的には。
つまるところ、三権分立というのは意志と実行の分離だといえよう。すなわちチェックアンドバランスやリスクマネジメントの体現であり、大上段に構えれば民主主義の根幹でもある。

逆にいえば独裁制や王権政治というのは意志と実現を同一者が行うことにほかならない。効率を求めれば政体というのは独裁制に行き着くしかないのだが、失敗したときのリスクが大きすぎる。強い指導者を求めることは効率的かもしれないけれど、スタビライザーが無いために危険なのだ。
ガバナンスの本義はリスク抑制にあるのであり、だからこそあらゆるガバナンスは、効率性をある程度犠牲にしてでも、リスクを最小限に抑える必要がある。その意味で、強力な政治家を求める風潮というのは国民の怠惰だろう。ゆえに、私は小泉純一郎も石原慎太郎も支持しない。もちろん、現状の官僚組織も。

同時に、民主主義というのはガバナンスの影響を受ける参加者(国家なら、その国民)は必ずその意志決定に参加できるシステムを設けるということでもある。ガバナンスシステムの選択はリスクの取り方の度合い選択でもあり、自己責任というのは自分が許容したリスクに対してのリターン(あるいはロス)を甘受するということであるからだ。
近代社会における個の確立とは、一面ではまさにこの自己責任の権利(義務では断じてない。どうもこのあたりを勘違いした議論が多すぎる)でもある。リスク許容度を選択できないのに、特定のリターン率を強制される仕組みに、近代精神は存在しない。社会の成長にとって、民主主義と市場経済が不可分であるのは、このあたりのシステムがそっくり鏡像のように似ているからだ。

この定義からすれば、日本にはいまだ民主主義も市場経済も完全な形では存在していないのではないかと思わざるをえない。

【意志と実行の分離はガバナンス原則としてのリスク抑制である】
【リスク許容度の決定に参加できはじめて、自己責任という個の確立が可能になる】

日本の政治・経済の未来像が明らかに歪んでいると思われるのは、まさにこの2点を無視しているからではないだろうか。

近代論を21世紀になっても必要とする日本社会。やれやれ。はよこいポストモダン。

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