ユニクロ人民主義

ユニクロ人民主義ネコもシャクシもユニクロの今日この頃、あれは経営の鏡のような企業なんだそうだ。

いわく、製造・流通・小売りの一貫体制。
いわく、徹底した大量生産によるスケールメリットの追求。
いわく、少数アイテムに絞り込みつつもカラーバリエーションを豊富にした品揃えの改革。

ここまでユニクロを誉める人たちが数年前に何を言っていたかと思えば、「これからは消費者主導の経済体制が始まる。大量生産の時代は終わった。きめ細かい個性を満足させるような少量多品種生産を、サプライチェーンマネジメントと融合させることが企業に求められるのだ。」ではなかったのか。こういう評論家たちが節操もなくユニクロを持ち上げることに呆れるのはいつものことだけれど、彼らにしてみれば「超日本システム型企業」が大躍進することにカタルシスを覚えるのだろう。余談終わり。

何十色のフリースがゴマンと並べ立てられた店内、みんなが同じデザインの服を身につける街の風景、ああどこかで見たことがある過去の記憶。
そう、昔テレビで見た北京の通勤風景だ。
何千人もの大衆が同じ規格の(しかもデザイン性のない)自転車にまたがり、カーキ色の人民服に身を包んで職場へと通勤する、あの光景。

そうだ。ユニクロとはマルクスの喝破した「高度資本主義社会=共産主義到来への最終段階」に、他よりも一歩先んじて辿り着いた企業だったのだ。共産中国や旧ソ連とは異なり、資本主義社会を百数十年経験した末に、工業社会として最適化された二十一世紀日本が花咲かせたユートピアの萌芽。なるほど、共産主義とは「いかにも個人にカスタマイズされたかように見える画一化」だったわけだ。微妙に色が違うフリースによって、デザインでなく色だけに因って、人々は自己を識別する。新しいステージの舞台衣装にはぴったりだ。

極度に放縦な社会システム=弱肉強食の世界において、現出するのは多種多様な個性ではなく、ただ一つのデファクトスタンダードを強制するリヴァイアサンだった。おそらくマルクス史観が予想した「最終段階」とは、理想の実現ではなく、先に進むことのできない「どんづまり」なのではないだろうか。マルクスの思想は偉かったし、ほぼそのほとんどが正鵠を得ていたけれども、残念ながらその目的地だけは彼が夢見た桃源郷ではなかった。彼が生涯抗議し続けた化け物たちの、進化の最終形態そのもの。

ユニクロを誉める奴に哲学なんかあろうはずもないけれど、10年後くらいに「こんなはずじゃなかった」などと嘆くのはやめにして欲しい。ユニクロを支持したのは多種多様な在り方つまりは『無駄』、を維持するためのコストとリスクを放棄した我々であり、同時に憂鬱な未来が来るのならば、それも我々が造り上げることになるのだから。

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