たった2人、されど2人の先達

不承々々仰るとおりに変更してみたら後からダメ出しされたり、不承々々仰るとおりの要求仕様で作ってみたら分かりにくいと指摘されたり、憂鬱だ。夏の頃はそれでも「オトナ語」とかを書いてみるココロのゆとりがあったのだけれども、最近本当にココロを閉ざして日々を過ごしている気がして、どうにもまずい。企画職って自分の我が儘と周囲の気まぐれをアジャストしていくことが仕事の大半なのだけれども、今は『プロデュースを任され』つつも『プロデューサーではない』という微妙な立場の中でそれをハンドリングする必要があり、どうにもやるせない。それも浮き世の定めと割り切って生きるのが楽なのだろうけれども、そういう躾は今まで受けたことがないのだ、これが。
僕はおそらく何百人以上の人と仕事をする上で関わってきたのだけれども、ビジネスマンとして尊敬しているのはたった2人、自分の父親と前職のボスだけだ。つまりは僕が曲がりなりにもその教訓を全て真摯に受け止めた相手はそれだけであり、それだけであるからこそその影響度はでかい。

こう書くと語弊があるかもしれないが、2人ともトップあるいはそれに近い立場で人生のかなりの期間を過ごしてきた人間であり、そういう人から(しかも熟年期以降に)直接教育を受けちゃうと、若い組織人の身すぎ世すぎにはいささか相応しくない物腰や思考が身についてしまう。もちろん彼らだって人並み以上の苦労をしてきたのは、端で見ていて重々承知はしているけれど、結局僕に教示してくれた何ものかが、どろどろっとした苦労の過程をすっ飛ばした、ある種の純粋培養的な哲学になってしまっているのは否めない。啓蒙とはすべからくそういうものだろう。

とはいえそれを否定するのではなく、逆に僕は彼らの教えを守って生きていくのだと思う。たぶん。仮に才能などというものがあるのだとすれば、人は誰しもその原石を持っているのであり、世間なる荒波はその原石をぶち壊して平凡なる平野に変えようとする所作だというのが僕のひねくれたアイロニーで、まあ今の胸突き八丁はその正念場なんだろうと感じたりもする。そしてへらへら笑って石ころは懐にしまい込んでおく。教えをくれた先達が望んでいたものはそういうことだと勝手に思っているし、彼らの期待(と僕が思うもの)に背くことは、他の全ての他人に薄笑いを浮かべられることに比べ、僕にとって何十倍も辛い。そういう生き方が正しいのかどうかはわからないけれど(実のところ世間的にはかなり間違っている気もするけれど)、まあそういう結論に達して本日は就寝。ちょっと気が晴れた。

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2 Responses to たった2人、されど2人の先達

  1. ひぃ のコメント:

    同感。わしもその予感♪

  2. 森島 のコメント:

    > 微妙な立場
    > ビジネスマンとして尊敬しているのはたった2人、自分の父親と前職のボス
    > 胸突き八丁はその正念場なんだろう
    > 実のところ世間的にはかなり間違っている

    ・・・どのあたりが同感なのでしょうか?(微笑

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