こうしてぼくたちは

最近、ずっと西村京太郎のトラベルミステリーを読んでいる。
彼の作品は、確か中学校くらいの時にずいぶんと乱読した記憶があるので、多くの作品は再読ということになる。あらためて読んでみれば、ずいぶんと粗雑な日本語だし、プロットや伏線も甘いし、状況設定にも無理があるし、・・・だけれども読みやすい。

これが中間小説、ってやつだな、と思う。いい意味で。
活字中毒なので本を読まずにはいられないのだが、疲れているときに読める本というのは限られている。そういうときに、すうっと1時間くらいで読める小説の存在は、大事だ。中間小説、という言葉の響きにはどこか軽蔑したものを感じていたのだけれども、あらためてこの歳になってみると、決してそうではないことに気付かされた。どんなときにも軽く読める小説がある世の中って、いいもんだなあと思う。そういう小説は、やっぱり文化だな、と思う。

何が疲れているかといえば、最近どうも諸事なにかと物憂い話が多く、ありていに言えば面倒くさい日々が続いている。それが三十歳になるってことだね、とシニカルなまとめ方をすればそうなるし、そうでないのかもしれぬ。
面倒くさいと言っていてはいけないのだけれども、あれやこれやがいちどきに降りかかり、良かれと思ってしたことが自縄自縛の罠となる。うまくいかないときは何かとうまくいかないものだ。こういうときこそ、黙って首をすくめ、亀のようにやり過ごせ、なんて人生訓は、それこそ中間小説に腐るほど書いてある処世術なんだけれども、いざその立場に立ってみると、なかなかそうは思えない。とにかく動いて打開したくなる。なるほど、教訓てえのは簡単に真似できるものではないからこそ、わざわざ活字になって世上に流布されるわけだ。なるほど。と、もう一度頷いてみるけれど、やっぱり真似できそうにない。

流れに逆らう舟のように、力の限り漕ぎ進んでゆくのはなかなかに骨の折れる仕事だ。絶えず過去へ過去へと運び去られながらの舟は、過去が増えれば増えるほど櫂が重くなる。面倒くさいの一言で片付けて、流されるままに流されてみたくなる誘惑に駆られる。流されてしまえば楽になるんだろうかね、と思ってみながらも、やっぱり流されることも潔しとせず、そのくせいつの間にか気がつけば流れはじめていて、意志の働かぬ船尾の櫓にいらいらとする。
こうして考えてみれば、流されてはいけないと思う我と我が身こそが自分を追い込んでいるような気もしてくるではないか。よく考えてみると、ストレスなんてのは多かれ少なかれ自己撞着の産物なんだろうけれど、しかしこれではまるで自家中毒の一種ではないか。やれやれ。

あれ、西村京太郎を読んでいるって日記を書いていたら、いつの間にか変なこと書いてるな。
まあ、しばらくは自分と向き合いなさい、ってことだ。

こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、
流れに逆らう舟のように、力の限り漕ぎ進んでゆく。

“The Great Gatsby”, F. Scott Fitzgerald

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3 Responses to こうしてぼくたちは

  1. REA in HINA のコメント:

    私は「若者はなぜ3年で辞めるのか?」を読んで疲れ果て、藤澤周平に癒されている。

  2. 井上 のコメント:

    はじめまして。
    “こうしてぼくたちは〜”という文章に惹かれてこのブログを何度か拝見させてもらっています。
    日常に流されるのも、立ち止まるのも、流れに逆らうのも、すべてその時の自分の気持ちに素直になって動いてみればいいんでしょうね。
    いつだって始めからやり直しできるんだから。
    でも、簡単じゃないですね。
    言葉にするのはとっても簡単なのに。

  3. もりしま のコメント:

    コメントありがとうございます。
    このフレーズは文中にも書いたとおり、フィッツジェラルドの小説からとっていますが、それでも流れに抗ってしまうというのが、まあ日常なのかな、と。
    言葉にするのは簡単なんですけどね、ほんとに。

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