Glorious days

この三連休は、妻の家族とみんなで一泊二日のキャンプ旅行。つちうちキャンプ場という秩父の山奥にあるバンガローを予約し、前日からスペアリブやらの仕込みをし、飯ごう炊さんを仕切り川下りや蕎麦打ちの予約をして、一家眷属7人のレクリエーションが無事終了。

義父が「こんどは孫とキャンプだな」と笑うのを横目で見ながら、僕はああ、確かに子供がもういない家族なんだなあ、と思う。実家族でも同じことなのだけれども、もう僕の属する家族には、誰かに面倒を見てもらうだけの子供はその輪の中心におらず、ぽっかりと穴が開いている。
かつてその中心には、僕が(あるいは妻や義妹が)いたのだろうけれど、僕はもう世話をする方にまわりつつあるのであって、今回も自分が楽しむ前に、手配を逐一していくことが主な役割だった。そして、それがそう辛いものではなく、確かに子供ができたときの予行演習みたいなもんだなあ、と思った。狩りを練習する若い動物みたいな。

自分が輪の中心にいたときにはさっぱり気づかなかったのは、実は子供こそが主役である、ということだ。
誰もが子供を支え、守り、そしてその中で子供たちは生を十全に楽しんで、そして大きく成長していく。子供の頃はそんな周囲の思いを知るよしもなく、ただ大きくなったら自分が主役になり、好きに生きるのだと勘違いしているものだ。守られるものが未熟なのではなく、守られる存在こそが絆の紐帯であり、それだからこそ彼らは「宝」と呼ばれるのだろう。
そんなことに、三十も三つ過ぎた年にようやく思い至る。今さらにして気づいた自分の未熟さに軽い衝撃を覚える。近頃の若者は成熟が遅いと言われるけれど、言われてもしかたのない話だ。

さて、キャンプで散財したとはいえ、まだボーナスには余裕がある。ということで、ずっと調子が悪かったMacbookに見切りをつけ、初めてiMacを購入。ずいぶん安くなったもので、池袋のヤマダ電機では149,800円にポイントが18%もつく。

MacbookではHDDの容量が少なく、ファイルはすべて外付けディスクで管理していたが、今度のマシンは過去のアーカイブを余裕で保存できそうなので、これを機会に音楽と写真のライブラリをすべて整理。…大掃除と同じ話で、ついつい古い音楽に聴きいってしまい、もう10年以上も昔の若い自分の写真に見入ってしまう。

その頃の時代を懐かしく思い出す。まだまだ輪の中心にいたかつての自分の姿が、スライドショーで次々と画面に現れては消えていく。「だいぶ遠いところに来た」と、学生の頃と現在が、ある意味初めて断絶した時間として僕の視野に配置されることになる。もはや僕は、明確にあの頃の僕ではないのだ。

縁起でもない話だけれど、今事故か何かで死んでしまったら、僕は幸せだったなあと思いながら世を去れるんじゃないか。すでにGlorious daysは去ったが、自分が守るべきものはまだ持たぬ、そんな狭間の時間の中で過ごしているから、そんなふうに感じるのだろう。

さて、ずいぶんと夜更かしをしてしまった。ベランダで一服して寝ることにする。
こういう夜に吹かす煙草が、またうまい。

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