1993/11/16 砂丘、のち野宿

(太字:当時の日記より)
(細字:注釈)

03:56
 (出雲市から豊岡に向かう「だいせん」の車中で)いろいろな格好で寝たら体が痛い。オーソドックスが一番である。

オーソドックス、とはふつうに座席に座るということなのだろう。この日は一昨日夜を過ごした浜坂を再訪し、魚市場のセリ市を見ようと思っていた。が、浜坂の市場にたどり着いたときには時すでに遅く、すでにセリ市は終わっている様子であった。気を取り直して鳥取に向かう。

09:53
 日本海は、見渡す限り白い波を砂丘にぶつける。波が高い。砂丘は大きい。しかし、2km×16km×高さ92mといわれると首を傾げる。餘部の鉄橋はその1/2の大きさだが、はるかに高く見えた。自然は黙して語らず、か。風紋は小さい。しかし足下にも広がっている。何百の靴跡は消されてしまうのだろうが、風紋は繰り返し作られる。(中略)空は雲一つなく晴れ上がり、海との青の競演。意志という言葉を思う。飛行機が飛んでいく。小さい。足下には小さな虫が。小さいか?いや、そんなことはない。(後略)

 いささか脈絡のない文章であるが、たぶん初めて見る砂丘に心を奪われていたのだろう。

 写真を撮っている人がいる。虚しくならないだろうか。

 余計なお世話というものである。

時刻不明
 ガイドブックに載っていた「大八邑美野」で弁当二千円也を賞味。うまかった。鴨の煮物、鯛とはまち(はまちは天然、鯛は?)の刺身、たこと帆立の酢味噌あえ、他にもいくつかで5皿、それとご飯、吸い物、漬け物。もうしばらくぜいたくはできない。久しぶりに腹一杯食った。

 砂丘の広大さに感動したのはよいが、その後ガイドブックで見つけたグルマンなお店で松花堂弁当を食べるとはよい気なものである。砂丘からは、生半可な悟りを得ただけなのであろう。
 このあと、鳥取から中国山地の津山へ移動。津山城を歩き、下校途中の高校生を見て疎外感を覚え、彼らと一緒に中国勝山まで列車に乗る。スーパーで弁当を値引きしてもらい、それを夕食にしながらさらに西へ移動。

genbudo.jpg

備後の国は東城というところで乗り継ぐ列車がなくなり、やっと持参のシュラフで野宿をする。駅員には「ヒッチがおるぞ」と指さされ、噂話をする前に、駅員室に入れてくれればいいのにと勝手なことを考え、眠りにつく。


今日の使用金額 3536円

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