正史:伝来 森島家はどこから来たか?

 森島姓に関して、いくつかの文献に目を通したのだが、「森島姓」についての記述はどこにもなかった。それほど多くある姓ではないのであろう。

 かつて聞いた話によれば、森島家の祖は以下の通りである。確証は全くない。

 今を遡ること1300年前、672年に起こった壬申の乱は朝廷勢力を二分して争われ、その中でも天王山として知られるのが不破の関(岐阜県西部、後の関ヶ原)での激突である。ご存じの通 り、この乱の勝者は大海人皇子、後の天武天皇であるが、森島家の先祖は敗者側である大友皇子に味方して戦った。そして不破の関での決戦に敗れた後、後の平家落ち武者のようなかたちで美濃の国に土着したのが、我が家の遠い由来であるという。

 言い伝えによれば、森島家は現当主信夫で9代を数えるという。また、我が家は江戸時代中頃に笠松(岐阜県、岐阜市近郊)からその南部に位 置する安八郡下大榑(しもおおぐれ)新田(岐阜県南部、輪中で有名な地域)に分家したのが始まりということである。
 そのような伝承から推察するに、我が家はおそらく森島家本流の分家筋にあたり、元禄年間の新田開発時に、何らかのコネクションがあって安八郡に移住したのであろう。その後も庄屋として新田を取り仕切っていたという歴史があるので、森島本家は新田開発に何らかの功があり、その分家として、我が家直系のご先祖がこの地に来たというあたりが真相なのではないだろうか。

 「森島姓でも三つくらい系統があり、それぞれ違いがある。今尾(岐阜県南部)から移ってきたのもあり、尾張からきたのもある」という伝来もあり、その由来について、明確な説は存在しないのが実状である。

 「丸に立ち沢瀉(おもだか)」が、我が家の紋所である。この紋の由来についても、確たる言い伝えはない。いつ頃から使用されているのかも不明である。

 <追記>

 森島姓の有名人の出身地であるが、各種文献よりやはり愛知・岐阜両県の比率が高い。事例が少ないため、統計的正確さはないが森島姓のルーツの一端を垣間見ることができよう。

 また、森島家の出身地である岐阜県下大榑新田についてであるが、「牛の様相をした怪物どもが集まっているのを、英雄某が撫で斬りにした。「大ぎり」が転じ、大榑という地名になった」という伝承が、古風土記文中に見うけられる。また、その隣りに位 置する福束(ふくづか)は、室町末期には城が存在していたことが確認され、土地そのものは古い由来を持っている。が、本流の大榑ではなく、我が家の所在地は「大榑新田」であり、一般に新田が冠せられる地域は江戸時代初頭~元禄年間に新たに開墾された地域である場合が多い。我が家のルーツを江戸時代中期に求めるのは、そのような一般的事例に加え、「現在で9代目」という伝承を基にした推察である。

 家紋である「丸に立ち沢瀉」であるが、毛利元就の故事より、戦に際し縁起の良い植物であると考えられていた。そのため、武家の紋所として多用されることが多く江戸時代以降の大小名家の多くがこの紋を使用していた。その中でも有名なのが、三河の国をルーツとする水野氏である。しかし、美濃の国あるいは森島姓とこの紋所の関連は不明である。

「丸に立ち沢瀉」
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