正史:佐太郎翁の時代

 現在当主信夫で9代目を数える我が家であるが、その歴代当主の中でもひときわ異彩 を放つのが、このホームページでも特にページを割いて以下に記述する7代目・佐太郎である。以下、敬意を払い、彼を「佐太郎翁」と記述させていただく。

 彼は先々代勘右衛門の子にあたり、先代為三郎の弟でもある。為三郎の早逝により、家を継ぐことになる。
 農村の庄屋らしく、佐太郎翁が当主になるまでの森島家は代々現状維持を続け、衰退もないかわりに進歩発展とも無縁という、江戸時代とさほど変わらぬ 形態を保ち続けていた。

 これを打破すべく、旧弊を廃して立ち上がったのが、この佐太郎翁である。先祖伝来の土地10町歩を担保として主人格の大地主である早川家から資金を調達し、名古屋市の伊勢町で株の仲買店を開く。今で言うリテール中心のミニ証券会社である。屋号は山佐。佐は翁の名前からであろう。創立の年代は不詳だが、明治後半であろうと推測される。

 その決断は成功するかにみえた。おりからの経済成長・軍需景気の時流をつかみ、順調に業績を伸ばしたのである。
 しかし、第一次世界大戦後の不況のあおりを受け、あえなく大正初期に倒産。担保の10町歩は全て負債の整理に消え、家屋敷だけを残して森島家は全ての財産が泡沫と消えた。翁は帰郷し、しばらくは仕事すらなかったようである。
 「かーん、かーんとキセルを火鉢に打ちつけながら、煙草をのんでいる姿だけが思い出される」とは、私の祖父であり翁の長男である弥太郎の述懐である。
 翁は妻つねを早くに亡くし、その妹であるりきを後妻に迎えていた。彼女は森島家始まって以来のこの窮状を打開し、自活の道を探るべく息子弥太郎を連れて東京に上り、羊羹屋を開くことになる。

 さて無聊をかこっていた佐太郎翁であるが、もともと縁が深い早川家のもとで、耕地整理・灌漑事業を始めることになった。「輪中」で知られるこの地は有史以来常に洪水に悩まされ、また区画整理も行われていないため、豊かな地味のわりには生産性が低かった。これを改善すべく、翁はまず、仁木村を流れる揖斐川の支流、大藪川の灌漑を行う。当時で私財数十万円をなげうった、という史実が文献に見えるので、相当の尽力を行ったのであろう。大正12年12月30に開始され、昭和7年9月8日まで10年の歳月を費やした事業は無事成功、水害は減少した。
 その次に着手したのが、耕地整理事業である。不定形で機械が入りにくく、生産性の低い土地を区画整理し、近代的な農地に生まれ変わらせる作業である。この事業は仁木村を近代化することに大きく寄与し、森島佐太郎の名は不朽のものとなった。

 その功により、翁は仁木村の村長に就任。彼の前半生に失った森島家の家産も徐々に復していった。また、翁の功績を讃えるべく、早川家所有の土地(現・森島家)に翁の銅像が建立され、その名誉は後世まで語り継がれることになった。

 昭和17年1月13日、森島佐太郎死去。村長辞任の3ヶ月後であった。生前の功労により、その葬儀は村葬として営まれた。

 翁の功を讃えた漢詩は、掛け軸として今も我が家に残されている。

蛭藻満張荒廃田 蛭藻(しっそう)張り満つる荒廃の田
苦心惨憺極精研 苦心惨憺精研を究む
萬難克服千秋業 萬難克服千秋の業
得救南安豊熟鮮 救うを得たり南安豊熟鮮(あざ)やかなり

(蛭と藻ばかりであふれかえった荒れ果てた田畑、)
(それを立て直すための苦労は、惨憺を極めた。)
(多くの困難を克服するのにどれほどの時間がかかったことか。)
(南安八を救い、今や田の実りは見事なものに変わっている。)

郷土大人佐太郎翁偲偉烈

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