朝食をラッフルズ・ホテルへと食べに行く。言わずと知れた名門ホテルのメイン・カフェはさすがに立派で、立派なホテルらしく入り口にはメニュー表など備え付けていない。気後れして隣のベーカリーに入る。
出されたのはリプトンのティーバッグに、まあまあのクロワッサン。一流とは言いがたい朝食だったけれど、勘定は700円近くした。これならばメイン・カフェに入った方が良かったのだろう。
宿で荷物をまとめる。祖母が出発前に送り届けてくれたのは、大きな梅干しの詰め合わせ。「梅干しには殺菌作用がある」との言付けと一緒に。しかしながら、僕は元々梅干しを食べる習慣もなければ、バックパックの中で死ぬほどかさばってしょうがない大きさだ。家に置いてくるべきだったと思いながら、宿に残して空港へと向かうことにする。やれやれ。荷造りが下手なのは、何回旅に出かけても変わることのない悪癖だ。
シンガポールを午後に出た飛行機は、夜の9時過ぎにデリー・インディラガンディー空港に到着した。むっと湿気の籠もった暖かい空気が僕を包む。シンガポールとは明らかに違う空気。空港にはその土地の匂いが染みついているとよく言われるけれど、別にカレーの匂いなどしなかった。インド一の国際空港なのに、薄暗い照明の構内。匂いよりもこちらの方がインドらしい。
エアポート・バスの運行は既に終了していたので、ITDC(インド観光開発公団)のプリペイド・タクシーを捕まえて市内に向かうことにする。このタクシーも曲者で、構内にはITDC以外の旅行会社のカウンターもあるとガイドブックには書いてある。旅行会社のタクシーなどに乗ったら後が大変なのは目に見えているので、注意して目的のカウンターを探す。料金を支払ってクーポン、といっても走り書きがあるだけの紙切れ、を受け取り、男に案内されてタクシーへと向かう。薄汚れたインド国産車、アンバサダーに乗り込んだ。
車にはドライバーの他に、なぜかもう一人の男が乗り込んでいる。やれやれ。この先の話は簡単に推測がつく。それが、おそらくインド最初の関門になるだろう。
「ハロー」
助手席の男が喋りかけてきた。
「インドは初めてかい?」
僕は鷹揚に「いや、二回目だ」と嘘をついた。少しの油断も禁物なのは、過去の経験でわかる。
「そうかそうか。いや、インドはいいところだ」
男はそう話しながら、すぐに本題へと切り込んできた。
「ところで、今晩の宿は決まっているのか?」
きた。これこそがデリー空港名物「客引きタクシー」か。怪しげな民営タクシーに乗るとこういう目に遭うという話は聞いていたが、まさか観光公団のタクシーまでもが商魂たくましいとは。
「ああ。乗るときに言っただろ?メイン・バザールに行けって」
メイン・バザール、正式にはパハール・ガンジと名の付くその通りはデリー随一の安宿街だとガイドブックに載っている場所だ。その名を聞くと男は大げさな声で
「オオー、メイン・バザール!」
「そうだ」
「そこはとてもデンジャラスだ。ツーリストが行くところじゃない」
「以前にも行ったことがある(嘘だ)、大丈夫だ、そこに行け」
「最近はとても危険なんだよ、ミスター。それよりももっといいホテルがある。リーズナブルでコンフォータブルだ。どうだ、そこに行かないか?・・・そうだ、そこのホテルではツアーの手配もできる、とてもユースフルだ」
本当にこれが二回目なら苦笑するのかも知れないな、と僕は思った。客引き文句のオンパレード。しかし、これはやはり初めてのインドで、おまけに相手は二人組ときている。
やれやれ。
相手が言いたいことを言うのなら、こちらも断り文句を並べさせてもらおうじゃないか。
「いいからメイン・バザールに行け。どこにも寄り道するな。早く宿に行きたいんだ。宿には友人が待っている。彼とは今夜中に会う必要があるんだ」
「そうか、でもホテルを見るだけ見に行かないか?」
「いいからメイン・バザールにまっすぐ行け」
「とてもビューティフルだ」
「まっすぐ行け」
「見るだけだよ」
「行け!」
男は漸く口を閉じると、大きく両の手を天に掲げて見せた。
そうする間にも、薄暗い郊外を車は走り過ぎていく。ずっと窓外を注視していたけれど、これがどこに向かっているのか、当たり前だが見当もつかなかった。
やがて車は市街地に入っていった。初めて見るインドの町並み。薄暗い照明灯が街路を照らし出している。と、喧噪あふれる小路に入り込んで、車は停まった。
「ミスター、メインバザールだよ」
本当にメインバザールなのかどうかも分からなかったが、うなずいて僕は車を降りた。
「デンジャラスだよ」男はまだ説得を諦めちゃいなかった。僕がバックパックを担ぎ終わると、今度はチップをせびる。
やれやれ。
さっぱり方角が分からないが、歩くうちにホテルの立て看板がそこかしこに見えてきた。間違いない。メイン・バザールだ。
ガイドブックであらかじめ目星をつけておいた「Anoop Hotel」にチェックイン。ダブルの部屋しか空いていなかったせいで、一泊250ルピー。明日からはシングルルームに移れるとのこと。
とりあえずニューデリー駅までの道を歩いてみることにする。ここメイン・バザールはニューデリー駅正面からの数百メートルの通りで、道幅はわずか数メートル。しかし地の利の良さで外国人が集まり、いつしかインド随一の安宿街となった場所だ。
道を歩くだけで、実感した。
確かにインドだ。
人並みに混じって牛が闊歩し、その横を多彩な襤褸を纏ったサドゥー(聖者)が杖を便りに通りかかる。ひっきりなしにかかる客引きの声、そして散乱するゴミと牛糞。
夜も更けたというのに煌々と点る店のライトの下では、旅行者たちが歓談に興じている。残飯を漁る牛が、時おり鳴き声を上げる。
インドだ。
僕は露店で、鞄をくくりつけるチェーンを買った。20ルピー。
さっそくインドに一敗したのはこの時だった。
インド物価に慣れた後で考えてみたが、どうみたって10ルピーもしない代物だ。