ゆく川の流れ

中高以来の友人と久しぶりに会う。お互いの近況報告をつらつらとしていたのだけれども、話を聞けばこの間マンションを購入したとのこと。彼の子供はもう4歳で、幼稚園に通ってポケモンが大好きだとのこと。
僕の記憶の中には、まだ結婚生活間もなく子供も赤ん坊のころのイメージしかなくて、ああもうそんなに時間が経ったんだなあ、と思う。その間3年。3年つったら、昔高校時分に徹夜で遊びに行ったりバカみたいに文学談義をしたりしてたあの長い3年と同じだけの歳月だ。

ついこの間は、大学時代の友人からも、もうすぐ父親になるという知らせをもらった。誠実でいい奴だったけどぶっきらぼうな彼が、もう1年もすれば腕に我が子を抱きながら、長い付き合いだけど想像もつかないような顔で、その子をあやしているんだろうなあ、と思う。

彼らのことを思うと、ほんとうにじんわりとした心持ちになって、自分でもびっくりするのだけれど、ちょっとだけ目が湿る。あの時期をともに過ごした畏友たちのそういう幸福は、ある意味我がことよりも嬉しい。彼らはそういう幸福を、さらりとした日常の中に受け止めていて、そんな姿勢がまた僕の気持ちを増幅する。

「ショージ君の青春記」という東海林さだおの半自伝エッセイの中に「漫画家になるかならぬか、ふらふらしている身で久しぶりに似たような境遇の友人宅に遊びに行ったら、玄関には牛乳箱があり、そこには2本の牛乳瓶が入っていた。彼はもう、生活をしていた」と主人公が衝撃を受けるシーンがあった。昔学生のころに読んだときにも感動したのだけど、今読むとその描写はいわゆる転換や断絶のドラマツルギーではなかったということに気づく。激情とは無縁の日常がいつのまにか始まっていて、その淡々とした日々こそがドラマツルギーだ、ということに。

まあ、正直なところをいうと、ほんのちょっとだけ寂しさもあるってことだ。もちろん、自分について。

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