氷河期後の格差

「プレカリアート」雨宮処凛著「『婚活』時代」山田昌弘、白河桃子著を続けて読了。

正直内容そのものは今さら感の漂うていどのものが多かったけれど、あらためてモノを考えるには、ちょうど良い連鎖のタイミングで続け読みしたなあ、と思う。

「プレカリアート」では、格差社会における冷酷な自己責任論が貧困を産み出したというのが主旨のひとつになっており、「『婚活』時代」では、若年男性の低所得化が非婚率上昇の一因であるという。
足し合わせてみれば格差発生→貧困到来→未婚増加、というわかりやすい一本フローになっており、今の若年層が抱える生活の問題点が分かりやすくなる。僕の所感では、それぞれのタームで発生した不安が、さらに互いに増幅させあっているのではないか、とみえる。

貧乏でも愛する相手がいれば耐えられるものを、独りで抱えねばならない。貧困解消を成したくとも、その前には厳しい格差という壁が立ちはだかる。環境、金、愛のそれぞれが手をつないでうまくいかない状況は、若年層の不安をかき立てるには十分だろう、と、まだ若年層のつもりの僕は思うんである。

僕はいわゆる「ロスジェネ」「氷河期」世代に属しているのだけれど、フリーターでもなく結婚のあてがないわけでもない状態ですら、言いようのない不安感にさいなまれるのが正直な気持ちだ。
世相に毒されている部分もあるが、それ以上に「未来がこれより良くなるわけがない」という、確信めいた原則が、僕の中にはある。ガソリンが値上げした、バターが店頭から消えたと騒ぐのを見て、どこかで「やっぱりね」と思う自分がいるのだ。

前述の不安の連鎖を断ち切れないのは、思春期以来延々とすりこまれたこの「未来への憂鬱」が大きいのではないだろうか。
将来の希望を糧にするというドグマが消え、ひたすら自己責任と暗い未来を叩きこまれた世代なのだ。暴動すらも起きないのは、そもそも暴動によって勝ち取れる未来など信じていないからなのかもしれない。

ついでにいうと、「氷河期」の厳しさは「つまずいたら終わり」というところにもある。転んで大けがしても自己責任。失敗のカバーは社会が担保してくれない。となると頼れるのは親や友人ということになるが、まさにこれこそ自分ではどうしようもない外部環境であり、その時に助けてくれるだけの余力がない親であったり、良い大学に行きゆとりと知識のある友人を作れなかった時点で、アウト。
つまり格差が拡大するのは最初の環境もさることながら「失敗時のリスクヘッジ手段」の有無の違いが、実は大きいのではないかと思う。何度かリスクテイクする余裕があれば、一定の努力は高い確率で実を結ぶが、そうでなければ一発退場のレッドカード。

とはいえ、「丸山眞男をひっぱたきたい」と喝破した赤城智弘が、座談会で語るセリフを聞けば「自己責任論」に転嫁したくなる世間の感情も分からないではない。僕も相当違和感を感じた。

  • 努力した結果が明確に見えるのであれば、僕は就職したいわけですから。
  • 確実に報われること以外は、なかなか頑張ることができないんですよ。
  • その仕事で一生食べていこうという、明確な動機づけができなかったんです。
  • 一つの方法として、収入のある女性が収入のない男性と結婚するというやり方がありますよね。
  • 例えば、お金を持っている人がお金のない人を養うのが当たり前となるような道徳を作り上げていくのも、一つの手じゃないかと思いますね。

(いずれも「プレカリアート」文中の座談会発言より)

確かに存在する格差やら貧困やらではあるが、この発言からはそれをイクスキューズとして個人の努力を放棄する赤木の浅薄さしか浮かんでこない。同時にこのような発言を聞いた世間は、努力不足のところだけにスコープをあて、社会に生まれつつある格差をフタで覆おうとする。両者が両者、自己責任とセイフティネットを混同するから話がややこしい。

とはいえ、鶏か卵かでいえば、まずリカバリーのためのセイフティネットが必要だろう。食うに困れば寝床と三食くらいは出てきて、就労支援もセットにするから安心しろよ、という社会的アナウンス。そこから、努力の神話を地道に復活させていくしかないのではないか、と感じる。

と、ここまで書きつつ、実はこの格差構造が続いてもよいんじゃないか、とどこかで思う氷河期世代の人間もいる。正直に告白すると、僕のことだ。

何も僕自身が格差の壁の向こうにある貧困とは無縁、というのではない。むしろ戸板一枚下の転落がありうるという感覚は常に感じている。圧倒的に安い労働コストが隣国に存在する以上、確実に競争力は低下していく。日本の成長率、一人あたりGDPが大幅に上向くことがない以上、確実にパイは減っていく。

と、いうことは。
国内に「自分以外の」安価な労働力が一定数存在すれば、国際競争力の低下もある程度避けられる。
格差が「自分とは関係のないところで」発生すれば、パイは縮んでも分配は今のまま継続できる。
こういうささやきは、まさに「氷河期」をくぐりぬけたサヴァイバーたちに甘く聞こえるのだ。意識するしないにかかわらず。

最終的に市場が縮小し、パイが見るかげもなく小さくなることは考えないのか?という反論もあろう。しかし、「プレカリアート」に書かれているとおり、先進国では貧困といっても一定の購買力があり、そこには「貧困ビジネス」が存在する。卑近に言えば、サラ金広告をたれ流し、ウィークリーマンションを売りつけ、自分たちは安くなった家電やら車を手にすればよい。

そう、それは自分たちが逃げ切れる数十年間のあいだのことだ。老人世代が「逃げ切る」のと同じことを、もう少し長いタイムラインで実現しようということに相違ない。長いだけに、同世代を相手にする話だけに、中味はより残酷で救いがないものになる。
いじめやらパワハラやら、僕らの世代以降は陰湿だと言われているけれど、これからもっとひどいものになるに違いない。ほどほどの人数を蹴落として「在庫調整」するために。同世代人としては、すでにそうなりつつある予感がある。

というわけで、この世代の親である団塊世代の人たちは、必死にセイフティネットの構築を進めた方がいいんじゃないか、と思う。息子や娘たちに期待したところで、彼らは恵まれていても手を差し伸べる気がなく、運が悪ければ同世代の奴隷になる運命が待ちかまえているのだから。

で、僕はどうしたものか。社会問題について考えるとき、結局そこで行き詰まり、アンビバレントな感情が自分の中で交差する。どう生きていけばよいのか、いまだに答えが出ない。

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1 Response to 氷河期後の格差

  1. aya.morishima のコメント:

    こんばんわ。森島の名字について調べていたら、もりしまさんのサイトを見つけました!私は、結婚して森島になりました。夫の両親は北海道のかたです。森島って、いそうでいないので、不思議でした。サッカー選手で森島さんが出てから、もりしーというあだ名を息子は付けられています!
    奈良県に多いみたいだよーなんて聴いてきたけれど、森島さんのサイト、とても興味深く読ませていただきました。ありがとうございました!
    他のページも読み、考え方に共感しています。

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