距離感と世界観

 今は長野オリンピックの真っ最中である。「3、2、1、ナガノ!」が国民の合い言葉らしいのだが、オリンピックに興味のない非国民の私はそんなものかという醒めた感想しか抱けない。
 長野には一度も行ったことがない。正確には長野市に行ったことがない。スキー場への往復に高速道路を通過しただけである。
 さて、私はバンコクを2度訪れたことがある。パックツアーではないので、地図を買いイントネーションのおかしい、通じるわけもない片言のタイ語で道を尋ねながらさんざん歩き回った。目抜き通りの賑わいや、それを尻目に流れる悠久のチャオプラヤー川は、今でもはっきりと思い出せる。

 私は長野に何の思い入れもない。
 私はバンコクを今でも思い出せる。

 こんな経験は、今の日本人にとってはよくあることであろう。地図上の物理的な距離と、体感する距離感が全くいびつなものになっている。数十年昔の日本人、いや今の年配の人たちにも味わうことのできなかった感覚である。
 自分の住んでいる村があって、隣り村には遠戚が住んでいる。年に数回バスで出かける街には映画館と洋食屋があり、それが最上の娯楽。その街には汽車の駅があって、それに乗って大阪や東京に行くことはちょっとした話題になる。そんな感覚、ある意味ではまっとうな距離感しか、数十年前には存在しなかったのだ。

 長野よりもバンコクが近い。そんな地図を心に描く我々の世界観は、距離感の変化と同じように変わっていくのだろう。人とのまじわりや、感じられる現実感も変化していくからである。タイの友人たちの微笑みには、長野のおっさんのくしゃみよりもリアリティーが存在する。

 数年前アジアの田舎町で、その町の住人に、「飛行機に乗ってやってきた」と言ったらまるで異星人を見るような顔をされた。
 全ての人々の意識が、すべからく物理的距離感を吹き飛ばせるようになるのはいつのことになるのであろうか。そうなれば、世界はずっと面白いものになるに違いない。

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