なぜ人は、そんなにも勿体ぶって世界を語ろうとするのだろうか?と言いつつも、 これから僕が語るのもまた世界についてであるので、自己撞着のような気もするが。
社会はどんどん無意味なものになっていく。無意味というのは正しくない。把握不可能な、それでいて真実であるものが増えるにつれ、全体像が個人にとって、不必要なものになるというべきだろう。
しかしながら、個々のミクロな行為がまさしく世界の構成要素であることは確かなのだ。にもかかわらず、直接的な世界との関わりは、幾重ものフィルタリングによって 個人が確かめうるものではなくなってしまった。全体像としての「世界」は、最早形而上のものに変わったのだ。
そのときはたして我々の営みは、世界に対比されたとき、どれほどの「レゾンデートル」があるのだろうか、いや我々はそれを感じとれるのだろうか。すべては浮遊した シャボン玉のように、ただ惰性で、あるいは観念で、ただ何となく流れている事柄のいかに多いことか。
はっきりとした意義を認識し、本当に何かを動かす力への信頼をともなった行為など、我々はほとんどなすことがない。いや、出来ない。目に見えるものだけに追われ ながら、語り、動くだけだ。
最終的な結果=世界へのリンケージが認識できない。だから、世界の動きは主観と切 り離された「記号」の移動として認識できるだけである。
しかし、我々は、「行為が世界を変える」という立派な主観(例えそれが「つく られた」ものであるにせよ)にもとづいて生きているのだ。そう、主観によってつくられた、しかしただのイメージが記号が、この社会を埋め尽くしていく、そんな世界に私たちは住んでいる。
世界など、所詮はそのような記号の蠢くおぞましいイメージの集合にすぎない。 個人が認識できるのが、その個々の胸の内にある思いだけならば、ここではどれだけ 自分の主観が他を圧するような輝きを持つかが勝負を分ける(もちろんそんな輝きすら もイメージの一部分である)。
そんな世界に生きる我々は、ただひたすら増幅するイメージを操りながら自己を位置づけていくだけだ。しかしながら「個と繋がることを拒絶した世界」においては、そのイメージすらも打ち消すことがある。そう。各個人が思う「個」なんて、真砂の砂の一粒のように雑多なものに埋もれた事象でしかない。
だけれども、自分にとってはそれが全て。矛盾してつかみどころのない現実の中で、今日も僕たちはそんな記号に振り回されて日々を暮らしている。
我々に認識できる世界は記号である。しかし我々の個は主観が全てである。究極的には主観イコール記号なのだろうが、誰もそのことを体感できない。悲しいまでの お伽噺だ。