秋空の中で思い出が甦る

最近、柴門ふみの漫画に深く共感してしまう秋空のわたくし。昔『東京ラブストーリー』が流行ったときにも何冊か読んで、思春期まっただ中の男子生徒としてちょっと胸ときめいて、しばらくするとありえない展開の薄っぺらい漫画という烙印を押した。
・・・で、ちょうど柴門ふみが描いた物語に登場する男女とほぼ同い年になり、改めて「新・同棲時代」とか「あすなろ白書」とか「同級生」とか、を再読してみると、ありえない筈の物語に深く共感してしまう自分がいることに心底驚いた。

柴門漫画に登場する主人公たちは、決しておとぎ話のヒーロー・ヒロインなんかではなく、「明日自分がそうなるかもしれない」人たちだったことに、ようやく彼ら/彼女らと同い年になって気づいたんである。こうしてみると、齢をとるって悪いことでもないような気がする・・・というのは全くの嘘で、気苦労が自分の現実になったことに少しうんざりしてみたりする。柴門漫画のテクストみたいな気苦労ってのも、考えてみれば幸せな日々なんだけれど。

そんな秋空の中で、久しぶりに海岸通と元町の高架下を散策して、数年前に見つけたタピオカ・ティーを供するカフェで一憩。
しばらくぶりの元高は少し様変わりしていて、それは街が変わっただけでなく自分もだんだん元高に似つかわしくない世代に属しつつあるのであって、狭いカウンターから首を曲げて、ぼうっと人の流れを眺めてみた。こうしてみると、齢をとるっていささかに哀しいにおいがする・・・というだけではなく、今でも胸をじんわりと熱くする思い出がちゃんと形成されていて、そいつがぎゅっと詰まった街が、まだ僕のすぐ傍にあることに少しほっとしてみたりもする。

学生時代からこのかた同じ街に住み暮らしている所為で、僕は自分が不完全変態のバッタのように、姿を変えずにいつしか大人になったことを思う。明確な『蛹』の時期を定めることが出来なかったというのも良し悪しで、僕はいまだに自分の来し方に区切りをつけることが出来ない。いつだって大人だったような気もするし、相変わらず子供のようにも感じたりする。10年前の僕と今のそれではそりゃ男子三日会わざれば的にずいぶんと変貌も遂げたはずではあるが、どこにもマイル・ストォンのないワインディング・ロォドだったこともまた確かな感慨として、僕の中にある。

そんな夜には、学生時代から何度も観た『天使の涙』(ウォン・カーウァイ)を改めて再生してみる。香港の夜明けにヒロインがつぶやく「この温もりだけは永遠」という最後の科白が、僕の胸にも染みわたっていく。

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