労働市場自由化の陥穽

失業率も悪化の一方、「労働市場の流動性を確保し、各人が望むかたちで働けるようにするべきだ」との論調がかまびすしい。その原則自体は別に問題でも何でもなく、望ましいことだとは思うが、問題は規制緩和とセットにして導入されることではなかろうか。労働市場を自由化する場合、雇用側のモラルハザードを防ぐ必要があるのは自明の理であり、そのためには逆に新たなる規制を設ける必要がある場合もある。
ところが実際は、声高な「規制緩和」の大合唱の中、労働者の権利を守るべき規制までもが打ち消されかねないのが現状だといえる。

学生時代、面白半分で軽作業の登録社員になったことがある。
履歴書を出して面接を受け、前日にかかってくる電話を待つ。当日はその指示に従い、現地へ向かい、勤務に従事する。その後派遣会社の事務所まで出向き、報告後報酬を受け取る。
毎日仕事があるのかと思いきや、電話がかかってこなければその日一日プー太郎と化してしまう。勤務の有無は前日にしか分からないため、下手をすると丸一日が無駄になってしまう。おまけに「待機指示」という内容があり、当日になるまで勤務の有る無しが分からない場合すらある。この場合は報酬に500円ぽっちがプラスされる。連絡をこまめに入れることが要求されるが、そのために使用する携帯電話代は自分持ちだ。勤務場所に向かう交通費も自己負担。軍手なども自前で用意する必要があり、土方現場などでは作業服着用を義務づけられ、この借用費も払わなければならない。

以上、経験した悲惨な話。私自身はあっさりとこの仕事を辞めたけれど、同僚の中にはこの仕事で生活している人もいた。長期登録者はもう少しましな状況だったけど、不確実な毎日に身をやつしていることには変わりない。
これはいささか特殊すぎる話だと私も思うが、「流動性の高い労働市場」などという美しい掛け声の裏にある悲惨な現実を、如実に示している一例ではある。

企業が定期雇用を行う場合、そこにはいくつかのリスクが存在する。

・仕事量と労働量が一致するとは限らず、過剰労働力を抱え込む可能性
・内部マネジメントに必要なコストの存在
・社会保険などの負担義務

最近流行の人材派遣とは、つまるところこのような企業の内部リスクをアウトソーシングすることにほかならない。間に立つ人材派遣会社がそのリスクを引き受けるわけではなく、排出されたリスクは一方的に派遣社員=労働者が背負い込むことになる。ハイリスク・ハイリターンならばそれでも納得はいくが、とてもそうではない。
企業は不況を奇貨として、労働者の足下を見ているとしか思えない。言ってはなんだが、合法的な脅迫に等しい。
利潤(それも相当の)をあげる派遣会社に外部委託しても、なおかつ経費削減になるというのだから、金銭的にだけ考えても、いかに派遣社員というのが割安な労働力として扱われているのかが分かる。

おまけに、将来が不安定ということは「将来の展望」なる時間的コストすらも派遣労働者へ一方的に押しつけられているわけだ。
定期雇用とは、この「期待値」を労働者に支払うことでもある。派遣社員へのセクハラが横行しているという話はよく聞くが、とどのつまり「将来への期待値」をダシにした不当取引が行われているとも言えよう。

もちろん、以上は技能を持たない労働者に限っての話だ。
だから職業訓練の充実によって自己の価値を高め、労働市場で競争力を高めていく必要があるという議論もよく見受けられる。しかしながら、一般的な能力の労働者が、たかだか数ヶ月のトレーニングで修得できる特殊技能とは、果たして特殊技能と呼べるほどのものなのだろうか?
ちょっとした英会話、無いよりはましといったレベルの簿記、オフィススイートが何とか使える程度のコンピュータ・スキル。産業の高度化に伴い、これらは自己を差別化できるほどの能力ではもはやない。パソコンだ英語だと奔走するか弱き人たちを見ると、弱みにつけ込む悪質な押し売りに媚びを売っているようにすら見える。これら一体を俯瞰すれば、うまくできた収奪システムだと感心すら覚えてしまう。

労働の市場化を進めるとはつまり競争の自由化であって、供給過剰になればあっさりと価格が下がるというシステムの導入だ。
供給不足=好景気になれば価格が上がるから、長期的な期待値は一定に収斂する、というのは詭弁で、どうしてそのリスクを労働者側だけが負担する必要があるのかについては一顧だにされていない。
大多数の人間に安定が保証されない社会、というのはつまり信頼係数の低い社会であり、下手をすると社会秩序が崩壊する危険もある。現在のデフレはまさにその萌芽だろう。「囚人のジレンマ」「合成の誤謬」によって構成される負の方向への歯車が、徐々に回り始めているのではないか。

同時に、このような状況は階級の固定化をもたらすおそれもある。高度技能を身に付けるためには、長い学習期間と原資を必要とし、それを負担できるのはあるレベル以上の階級に限定されてしまう。
それ以外の人間でも(基本的には)努力によって立身出世できるというのが日本社会の良いところであったわけだが、過当競争がもたらす賃金の全体的低下と、そもそも必要とされる技能が高度化することによって、多くの人々にとっては学習への参加自体が困難になるからだ。

リスクを振り払い、身分を保障された人と、
ロー・リターンにあえぎ、這い上がることが困難である人々。

笑うしかないような、マルクスの預言の成就だ。そして既に、自由競争を第一の旗印にしてきたアメリカでの事態はより進展している。おそらく日本でも、現状の路線を進める限り、アメリカ社会と同じ状況が現出するだろう。
余談ではあるが、欧州において、反米基調の現れや「第三の道」の模索が行われていることはただの偶然ではない。明らかにヨーロッパ諸国は、アメリカ型社会に見られる危険性を察知し、回避する方向に舵を切っている。
例えばオランダなどは労働力が比較的流動化している国だが、労働者が労働条件に注文をつける権利がきちんと整備されている。一方的なリスク押し付けにならない配慮が、そこには存在する。

個人的には情けない話だと思うのだが、職がないよりはマシだということで、最近は派遣社員に「新卒」が目立つようになっていると聞く。このような状況で、企業はますます増長するだろう。
「高楊枝の精神」で、悪条件なら働かないという気概ある若者がもっと増えてもいいと思うが、現実はそうでもない。労働が善というのはまあ美徳だとは思うけれど、その麗しき慣習さえ逆手にとる企業のしたたかさには、舌を巻くしかない。勤労が尊いというのならば、その労働力をモノのような単純な市場システムで扱うべきではないのだ。

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