電車男というコミューンが示唆する可能性

2ちゃんねらーとbloggerの間でブレイク中の『電車男』を読んでみた。
SHINTAKKINさんの「きまぐれ偏拾帖」では懐疑的なコメントがついているし、この意見はしごくノーマルな反応だと思うけれど、やっぱり僕はハートウォーミングな『電車男』スレのログを読んで、ネットに存在しているある種の希望と可能性を信じてみたいと思ったりする。

電車男
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Aquarius/7075/trainman.html

きまぐれ偏拾帖:(袋叩きを覚悟の上で)電車男スレを考えるより

現在の日本で、おおっぴらに言えないこともうち明け相談し合えるようなリアルの人間関係がどうして薄れ、消えてしまったのか、そこまでは僕にも分からない。いずれにせよ正視すべきものは、「幸運な」電車男氏の背後に、佐世保の女児を極端な代表とし、電車男や青い鳥の物語に涙する無数の「不幸な」若者がいるという現実ではないかという気がする。今の日本に2ちゃんねる以外、彼らをコミュニティー不在の危機から救うための手だてがないのだとすれば、それはある意味深刻な問題だと思う。

彼の言うことはまさに正鵠を得ている。しかしながら、その救済を「過去にあった制度の復活」に求めるのか、「新たなコミュニティ」の創世こそがそれなのか、どちらを信じるかが「ネット世代とPC世代を分ける「インターネットの隠れた本質」(CNET Japan Blog – 梅田望夫・英語で読むITトレンド)」なんではないかと思う。その点、僕は後者の立場をとる。
コミュニティの不在が社会、なかんずく社会に出たときからコミュニティがなく、残滓にすがりつくこともできない若年世代、に与えている「漠然とした不安」を解決できる何かがあるとするならば、自分がネット業界にいるという贔屓目を覚悟で、インターネットというツールがその寄る辺に一番近いと言ってみる。
もちろん、まだネットはコミュニティと言うよりはコミューンと称したほうがふさわしく、普遍的な存在にはなり得ていない。けれど、10年後にしたり顔でネットの危険性を説く評論家連中と2ちゃんねらーのどちらが市民権を得るか、これはみものだと思います。

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