花火大会に行った。人手の多い中、若い人たちが堤防に登って花火見物をしていた。警備員さんがマイク片手に「堤防からはすみやかに下りてください」と怒鳴っていたけれど、ほとんどは振り返りもせずに花火を眺め続けていた。
数年前、というのは僕がその少年少女たちのように堤防によじ登っていた年頃には、たいがいひとりふたりは「うるせえ」と叫んでみたり、逆に臆病な奴は囁き合いながらそそくさと退散したりしたもんだけれども、2001年の彼らは、見事なまでに誰もがコミュニケーションの動作を取ろうとはしなかった。
僕は少し感心した。彼らはクレバーだという意味でだ。誤解や反発も存在しない、クールな拒絶。そして疲れ切った中年警備員の側にも、苛立ちさえなかった。
すべからくコミュニケーションは『誤解の交換』だが、その誤解を無くそうという方向が情報伝達の基本にあったように思う。彼らが、そして社会が選択し始めたのは、誤解を内包するコミュニケーションそのものの拒絶だ。
モダニズムを信奉する限り、それは唯一の真実ではないかもしれないが、合理的だ。一方で市場だの自由競争だのの合理性を信奉する大人が、他方で彼らの取るような行動を非難するのは的はずれだろう。
我々に突きつけられているのは、そのような恣意的な秩序の形成ではなく、近代合理性というパラダイムを肯定するか否定するかの選択なのではないか。