ニートについて

先日、社会学者の卵である知人と「ニート」についてちょっとした議論をして、結論として玄田有史の「ニート」をまず読め、ということになった。本を読まないと議論の土俵に立てない、という言い方も学者らしくて角が立つなあ、とは思いつつも、とりあえず買ってみる。
本を読むのはおいおいにするとして、アカデミーからの発言としては「ニートは個々人の問題ではなく、社会全体の問題である。個人の性格や力量だけに還元してはいけない」ということらしい。まあもっともだ。一説には40万人を超えるニートが発生しているという。地方の県庁所在地クラスの人口、しかもいい若者が勉強もせず働きもせず、おまけに進学や就職の意志もないというのは、明らかに社会システムの問題があるレベルに達しているのだろう。

参考記事:ニートと呼ばれる若者たち-玄田有史・東大助教授が調査MSN-Mainichi INTERACTIVE

とはいえ15~24歳の最新人口推計は1490万人なので、ニートはそのうちのたった3%弱。3%という割合が誤差かそうでないかはさておいて、残りの97%はフリーターであれ何であれ、社会にコミットして生きていることを考えると、本当に個人の問題(あるいは個別家庭の問題)ではないのかどうか、いささかの疑問を禁じ得ないのが、一般人の率直な感想だ。いつの時代にだって3%程度はダメな奴がいて、乞食になったり与太者になったりしたのが、たまたまハイパーリッチな現代日本ではそこまでアウトサイドに追いやられることなく生活することが可能なので、「ニート」と化した。そういう乱暴な仮説で検証終了、ではダメなんだろうか。

つまり、ニートなる存在はいつの世の中にだっているのであって、放っておくなり無理矢理に働かせるなりさせるだけで良い。放置しておくという一案はさておいても、働かせるという強制的な解決策ならいくらでも取りようがありそうなものだ。
昔なら親が引っ張っていってどこかに頭を下げて働かせるなんてことができたのだろうけれど、地縁も血縁も希薄化した現代では親にそこまでのコミュニティがなく、逆に少子化の進行でニートを養う余裕はあり、結果として今の状態に至ったのであって、家庭にその復帰を後押しする力がないのならば、それこそ社会なり国歌なりがそれを代行すればよい。近代国家ってのはそのために存在するのだしな。
個人的には1年職探しをさせて、それでも就職できない奴はモザンビークでPKOかシエラレオネで井戸掘るか、はたまた特養老人ホームでおじいちゃんのオムツ替えをさせればよい。徴兵制よりはよっぽど現実的な解決策でピースフルだと思うのだけれども。

もちろん新保守主義、懐古的に言えば重商主義的な社会の風潮が労働の疎外やマクドナルド化を進展させ、彼らをしてまっとうな職からあぶれせしめ、階層社会化を推し進めている、というリベラリストの意見を否定するものではない。というかまったく賛成だ。
しかしながら、危機感=飢餓感のない社会において、いたずらに彼らをシステムの犠牲者として取り扱うという言説には、これもまたやっぱり違和感を覚えるのだ。努力しても職に就けない失業者とは異なり、彼らは意志なり能力なりを体得するために何らかのコストを払ってきたのだろうか。自らの意志で就業・就職しないのであれば放っておくしかないし、能力が無くてやりたい仕事に就けないというならばそれは最早個人の勝手である。自助努力でスキルを体得しろ、と言うだけだ。ニートの問題は働いてゼニコを稼ぐという課題に対し、自分の意志を確認することが出来ない人たちが(たぶん豊かさのせいで)増えている、ということにあるのではないか。だから僕個人としては、前述の見解となる。学校でも家庭でもビジョンを見つけられなかったのなら、とりあえず働いてみろ、というわけだ。そしてどうせ働いてくれるのなら、直近で問題山積のセクターで汗を流してもらうのがよい。一石二鳥だ。

ともあれ、一度「ニート」を読んでみることにするけれど。

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