テレビをつけると「やすきよ」リバイバルが放映されていた。今から見ると平凡な掛け合いや予想のつくネタも多く、幾星霜の趣もあるけれど、それでもついつい見入ってしまう。狂人的なテンポでまくしたてるやすしと、絶妙なツッコミのきよし。やすきよは確かにテンポの面白さだ。誰にも真似ができない。
横山やすしは実生活でも数多くの乱行で知られるけれど、漫才の舞台にもあからさまに狂的な臭いがする。『ぎりぎりの人』だったのだろうなあ、と思うと、笑いの中にもついつい哀愁を感じてしまう。
そして彼らの漫才は、また同時に極めて差別的でもある。弱者や女性を、やすしの凶暴性=男性的暴力で屈服させていく。おそらく、今ではクレームが付くようなネタを、隠すこともなく荒々しく笑いに仕立て上げていく。笑いとはつまるところ差別である、という率直な事実を芸能にしてみせた芸人だ。だからこそ横山やすしはあれだけの人気を博して、そして零落していかざるを得なかったのだろう。
差別のない社会は理想だけれども、笑いのない社会は平板である。矛盾の持つリアリティを体現したあの漫才、そして演じるやすしの姿は、今でも見るものの胸を打つ。