壊れる男たち:金子雅臣

どこかのブログにリンクが貼ってあったのにそそられて、Amazonマーケットプレイスで購入。

他人事として読めば、なぜこれほど愚かな行動を……と思う登場人物たちのステロタイプなセクハラにげんなりするのだけれども、いざ我が事として省みれば、おそらく僕も、セクハラをしているに違いないと考えさせられる。
もちろんいきなり誰かに抱きついたり、社内でストーキングをしたり二人きりの外食に誘ったりするわけではないけれど、例えば喫煙ルームや飲み会の席の微笑ネタとしての猥談に参加することはないのか、ジェンダー差別的な言動をすることはないのか、と言われれば自信がない。公にしているブログだとこういう書き方になるけれど、はっきり言えばしていたし、している。

そういった意識の底辺にあるものはやはりどこかでジェンダー差別のにおいがするし、上野千鶴子の言葉でなくても、多くの男性は常にハラスメントの加害者になりうるものなのだろう。残念なことに、男女を問わずセクハラのインナーサークルに入ることによって、妙な親近感を作るのが日本社会のありようではあるけれど。

話は百八十度変わるけど、それだけ「自分がいつセクハラの加害者になってもおかしくはない」空気の中で過ごしていると、万が一無実の罪を着せられたとき、誰もそれを助けてくれないんだろうなあ、と思う。女性の同僚が、友人が、あるいは恋人が僕を濡れ衣のセクハラやDVで訴えたとき、おそらく僕はそれに立ち向かうことはできない。だいたい女性の言い分が通るものだし、何よりも僕=男はいつ顕在化した加害者になっても不思議はない環境なのだ。

痴漢の冤罪も恐ろしいとは思うけれど、ああいう事態が頻繁に起こりうるのも、男性一般が潜在的な加害者だからなのではないかと思う。そういう意味では、セクハラやら痴漢やらの冤罪は、僕ら男が全体で背負っている税金みたいなものだ。納得も理解もできないけれど、理屈としてはそういう風にも言える。

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